対話宣言

「対話」を万能の盃でなく、「ひとつのツール」として継続的に使用している方々ほど、対話の限界を知っていると思う。
「例え多くを救うことはできなくても、それでも対話を続ける」
これは宣言であり、覚悟であり、職人気質の「ある種の諦め」でもある。

ペンは剣よりも強し、ということわざは「言論の力は、政治権力や軍隊などの武力よりも民衆に大きな影響を与える」(Wikipediaより)という意味だそうだ。

「対話」という技法は、その名称のつく前から人類によって脈々とつづけられてきた方法だ。
それでも争いはなくならない。むしろ、対話からはじまる争いは絶えない。
対話は争いを抑えもするし、勃発もさせる。

それでも、僕らは対話を続ける。
「対話」という名称にこだわるかこだわらないかに関係なく。

ただ、「対話ってなんだ」という原点は既に多くの場で見直されすぎている問いでもある。
原点は回帰するものでもあり、土台となっているものでもある。
多くの「場」でその問いが、行ったり来たりしてはいないだろうか。
行ったり来たりしている「だけ」ではないだろうか。
積み重ねながら時間を経て階段のようにあがっていく。
ただ、それを続けていくと、階下にいる人たちを置いていく。
そこに面白さがある、といえばそれまでだが置いて行かれた人たちはたまったものでなない。

「対話」はものすごく厄介で遠回りで、ゆるやかに差を拡大させていく。
上下にも左右にも。

「対話」への自問自答は続いていく。
常に宣言を胸に溜めながら。

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