語ったら負けだとしても
報じられているように、長野駅前で殺傷事件が起こった。
3日ほど日を空けて、犯人は逮捕された。
地元での帰宅時間帯、そして主要な駅前での大きな事件ということで、報道各社、知り合いや友人のSNSでは、様々な感情や分析が報道、投稿された。
特に長野市周辺の方々は、とても人ごととは思えなかったのだと思う。
僕は当初、犯人が逮捕された、というところでこの事件を追うのを止めようと思った。試みた。
だが、家では両親がニュースを見る、SNSには流れてくる、毎日目を通す新聞にはでかでかと載る。
視界や耳に入れるのを止めるのはほぼ不可能だった。
案の定、被疑者の学生時代の写真や生い立ち、現在の生活状況などが報道各社から飛び交った。
僕がその事件を追うのを止めたかった理由は、関心がないからではない。むしろ、ふつふつと盛り上がってくる興味関心にガソリンを与えないためだ。
『好奇心は猫をも殺す』とはよく言ったものだ。
そして『沈黙は金なり』ともよく言ったものだ。このSNSの時代。簡単に自分の気持ちを表明できてしまう。「恐怖」「不安」、そして「正義感」のような、感情や使命感を帯びた言葉がたくさん出てくる。
それら一連の事象に対して、僕は泣きたかった。
今まで誰の視線も向かなかった被疑者に対して、当時一般市民であった被疑者に対して、幾千幾万もの目が向いたのだ。
なんだったか忘れたが高倉健の映画の一部を観たことがある。
出所後入った食堂で、ビールを飲み干すシーンだ。
あの時、高倉健にビールを出した従業員は、彼のことを知らなかったはずだ。
「知らない」ということの価値を、改めて考えて行きたい。
当事者性、を誤って捉えてはいけない。そう思う。