盗み聞きができない暮らし
数年連れ添ったパートナーを訪れて、私はしばらくの間エストニアの首都、タリンに来ている。
しばらく現地からのリモートワークを許可してくれた会社には頭が上がらない。
仕事を終えて旧市街にあるレストランのテラスで食事をしているとき、店員さんの知り合いと思しき女性2人組が私たちの隣の席についた。
大きな声でぺちゃくちゃとエストニア語で喋りはじめた彼女たちを横目に、ぼくたちには理解できないから不思議と気にならないね、と彼が。
納得する反面、カフェや電車で女子高校生やマダムたちの会話をぬすみ聞きする感覚を味わえないのは寂しいことだと思った。
誰かを密かに笑い者にしたいわけではなく、身の回りに生きている赤の他人の生活の片鱗に触れて、社会に溶け込んでいるという安心感が欲しいのかもしれない。
英語で接客してくれる店員さんはとても感じのいい女性だが、どこか型式ばっていて、よそよそしく感じた。知り合い客に話す店員さんはとてもフランクで、本人も楽しそうだった。
たまの観光なら、bla blaと聞こえる音だけのエキゾチックな体験に心躍るかもしれないが、何度も訪れたこの国で異邦人として存在し続けることを切なく感じてしまった。きっと同じくエストニア語がわからないまま恒常的にここに暮らす彼はもっと寂しいだろう。
どんなに人の行き来が盛んになって、街に多様な人が溢れても、言葉によるウチヨソの感覚は到底消えなさそうだ。
たとえあらゆる国籍の人が会話ができる最強の通訳マシン誕生しても、わざわざ隣人のぬすみ聞きをするだろうか。街の雑音に紛れる言葉の断片を繋ぎ合わせ、無意識のうちに何かの意味を発見できるだろうか。
知り合いの少ない鎌倉での一人暮らしは時々寂しかったが、街に出ると気が紛れていたのは、道行く人々の声を聞いて社会と自分との境界を緩めていたからなのかもしれない。
なんて一見当たり前のようなことを考えながら、ヴィーガンラザニアで満腹のお腹を落ち着けるために、彼を家に置いて一人で散歩の続きをしいた。19:00ごろ、ようやく夕方と呼べるような時間帯になってきた。
※ちなみに、外国人のエストニア入国については条件があります。
私も渡航に際しては入国管理の許可を得ており、入国者へのコロナ対策における義務を全うした上、感染症に配慮しながら生活しております。