「自分のため」と「誰かのため」はいつも一緒に
ここしばらく、何かをする動機や理由についてモヤっていたところに
サクちゃんさんのエントリがあって、
少しずつ自分の中の迷いやモヤりの理由が見えてきました。
私は、全ての「やりたいこと」は「自分のため」だと思っているんです。
「誰かと一緒に」や「誰かのために」というのは自分とセットでついてくるものであって
先に来ているのは「自分の望み」なんじゃないかなぁって。
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「自分のため」なのか「誰かのため」なのか
こういう文脈の時の「自分」と「相手」や「誰か」を分けているのは
〝ゴールのベクトルが誰に向いているか”
というポイントなんじゃないかしら、と今今は考えています。
(サクちゃんさんのエントリは、中心人物が誰かという意味で、この文脈で自己の成熟過程について書かれているものだと思いました)
自分のやりたいこと・好きなことは
ゴールが自分から出てきた「何か」であることはわかりやすいですね。
そして、誰かのやりたいことに参加することや、誰かを助けたい・何かのためになりたいというのは
ゴールに向いたベクトルの先に「誰か」や「何か」の存在感がある。
だから「誰かのため」は目的が「誰か」にあるように思えるんだと想像しています。
ですが、この「誰かのため」の主体や目的が本当に「誰か」や誰かのやりたい「何か」にあるのか
というのが、実は違うんじゃないかなーと思っています。
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「誰か」の役に立ちたいというモチベーションには
自分が何かしらの貢献実感を得られるという期待や目的が後ろにひかえています。
困っている人を助けられた結果
誰かのやりたいことをチームで達成した結果
自分のできることで誰かや何かが変化した結果
何かを人に教えた結果
私が世界に対して貢献できた!というすてきな達成感を得られるから、「やりたい」という気持ちが出てきますよね。
結果の良い/悪いは別にして、この貢献できた!という感じがいつもゼロだったら
「誰かのために」のモチベーションはわかないと思うんです。
誰かを手伝って「ありがとう、助かったよ」と言われればもちろんとっても嬉しいし、
だけど周りの全員が「その手助けいらなかったわー」って言ったとしても
自分が本心から「これは役に立っている!」と信じていれば、貢献実感は得られるものだと思います。
逆にどんなに周りが喜んでいても
自分はこんなのでは誰のためにもならなかった…!と毎日思い続けていたら
誰かのために何かしたいという気持ちはどんどんしぼんでいくと思いませんか?
私ができることと、誰かに貢献できると信じられるものが
一緒に手をつないで歩いているのが、「誰かのため」の本当の姿だなぁと、考えています。
だから、「誰かのため」の源流は「自分のため」なんです。
ただ、日本文化てきに「自分のため」っていう言い方は欲望や自己中みたいに聞こえて居心地が悪いから
あまりみんな使いたがらない・そう思いたくないのかなぁ
なんてことを、ふわふわ考えています。
自分のため、最高だよね^_^
だって「やりたい」の本質をちゃんと見つめられてるってことですもん。
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私がモヤっていたのは、本当に自分が主体的に「やりたいこと」が急にわからなくなってしまったからなんですが、
同時に「自分のために、誰かのために何かをする」も今はしたいと思えない!というジレンマがあったからです。
とはいえ、いつだって私は「私のため」にやることを選んでるし、
自分がやりたいと思うことの明細には「誰かの役に立つこと」が含まれているから。
だって私はこの世で1人で生きてるわけじゃないから、
生きてる限り「私」と「誰か」はいつも表裏一体 or 一心同体だから。
ただ「やりたい」と思う気持ちとアイディアが、毎日の心から湧き上ってくるのを
しばらく待ってみようかな♪
そんな風に今日は結論づけてみました。
読んでくださりありがとうございます☆サポートで美味しいコーヒーショップのミルクティを飲んで、またよい記事が書けるようにお勉強します!