見出し画像

「いい子」をやめたら生きやすさがやってきた

ちょっと前に、幼馴染のママと食事をしていて、スカートに少し食べ物をこぼした。
ふきんでシミにならないようぬぐってる私を見ながら幼馴染のママが
「珍しい!さらは小さい時からこぼしたりしない子だったのに」って驚き半分・面白さ半分みたいな感じで笑っていた。

子供のころからわりと「いい子」だったと思う。
しっかりしてる。ワガママ言わない。お勉強もそこそこできるし食事もきちんと食べるし規則正しく寝起きする。
両親同様に、うにうにの頃から私を見守ってくれていた1人である幼馴染のママから見ても
私は「ちゃんとしてる」「いい子」だっただろうなーと。

でも私、今はちゃんと言えるんだー。
「えー私けっこう抜けてるしおっちょこちょいよ?笑」

私にとって「いい子」「ちゃんとしてる子」でいることは生存戦略のひとつだったと思う。
いい子という名の大人が評価する内側にいれば、怒られないどころか褒められる。
周りの誰かが必要としてくれる気がする。私が生きていていい場所を与えてくれる。
「いい子」は私にとって重要な「安全圏」だったんです。

だけど、大人になって、「いい子」が評価と結びついていることにだんだん気付いてきて
他人の評価軸で生きることが苦しいことだって気付いてきて
自分で自分を認められなきゃ人生が不安でしかないことに気付いてきて。

それがわかってきた時に、「いい子」でいなくてもいいんじゃないかと思い始めた時に、ふと引っかかったこと。
相手の望んでるであろう私の言動と違うことをしようとすると、謝りたくなる。
申し訳なさがわんさか湧いてくる。

私のこの「相手の思い通りじゃない私、ごめん」感はどこからきてるんだろう?
それが今日のテーマ。

「いい子」歴が長くなると、相手のしてほしいことや求めているものへの感度が上がっていく。
高感度故に相手の望みを上手にどんどんかなえていくと
「いい子」「いい人」って言われる反面、
それ以外のことをやろうとした時に大きな大きな、申し訳なさが出てくる。

えっ…私がやりたいことやると、相手に迷惑なの…?ほんとに??

ここでさらさん、考えました。
相手の思い通りじゃない≠相手が不快になることをする
↑これ、大事なんじゃない?

相手が喜ぶからこれをする・相手に優しくする みたいなことを「やらない」って選択するのは
わざわざ不快にさせることや冷たくすることとは、別物だよね。
もしそういう考えが浮かんで来たら、それは「ゼロ百」で考えていそう。
私のやりたい事が相手の望み通りじゃないとして、望み通りじゃなかったら100%いつも悪なはずがない。
そして少なくとも、私にとってはめっちゃ善だし、
そもそも相手からの見返りが欲しさで私は生きているわけじゃないはず。
相手が「喜んでますよ」の態度を返してくれることを報酬として望んで、その人と付き合っているわけではないはず。

私は何の見返りもなしで、相手にこの気持ちを、態度を手渡したくて、あなたと今向き合ってる。
その手渡したものをどう受け取るかは相手次第だし、お互いにそれを分かっていて関係性をつくり続けていくことを選び続けていて
あなたと私の未来がつくられていく。

もちろん、報酬のために「いい子」でいることも、できるししたっていい。
ただリスクとして、誰かの思い通りを報酬にして貯金しまくると
「いい子貯金」をかぎつけるのが上手なワガママさんに見つかって「いい子搾取」される可能性が大きいと思うんです。
あなたはいい人だから、私の思い通りでいつもいてくれるよね?を無自覚に求めてくる人。

「いい子」で一所懸命生きてきた結果、周りに搾取人が知らないうちに増えていて
なにこれちょう生きづらい意味わかんない…てなった私は、いい子ごっこ、やめました!
ご飯こぼしても、笑って自分らしくいます。
いい子らしい言動じゃない私も、すすんで受け入れられます。
この方が、ずっと、幸せです♪

#コラム #自己肯定感 #人間関係 #幸せ

読んでくださりありがとうございます☆サポートで美味しいコーヒーショップのミルクティを飲んで、またよい記事が書けるようにお勉強します!