どんどん活字が読めなくなっていく未来
もうずいぶん前になりますが、ある方とご一緒に映画を観ました。もう遠縁になってしまった方なのですが、たしかベンジャミン・バトンだったかと思います。
映画が終わってお茶をしたとき、不思議な映画だったねということで話をすると、どうやらその方は最初から最後までストーリーがわからなかったようなのです。
笑い事ではなく、なんとなくハッとしました。なぜなら私も長編小説(鞍馬天狗、竜馬が行く、三国志などの大がかりなもの)はスルーして読みません。なぜなら頭の中が混乱してうまく理解できないからです。
いまは反省して少しずつ「指輪物語」「砂の惑星」は読んでいます。映画を観るとわかりますが、壮大な物語で、いまある風景では考えられないようなシーンがたくさん出てきますね。
ですが、私の頭ではそれがイメージできないまま読むことが進んでいます。
ひょっとしたら、テレビが無かった時代、子どもたちはもっと頭の中には壮大な宇宙が広がっていて映画よりもすごい世界観を「読む」というだけで楽しめていたのかもしれません。
それはとてもすごいこと。だって読んだ活字が脳で変換されてどこにでもいけて何にもなれるのです。
大人になったせいなのか? すでにエンタメがたくさんあるせいか? いまは脳が制限をしてしまってあまりイメージが広がりません。おそらくこれは「活字が読めない」ことにも原因があるような気がしています。
いつから人は物語を追わなくなったのでしょうか。トルストイなどのロシア文学では、壮大なページ数を誇りました。小説ではありませんが、ワーグナーなどは深夜にまでおよぶ曲を作りました。他にもいっぱいありますけれど、どれも長さにおいては皆さまも納得していただけるかと思います。
「長い」というのは良し悪しがあるにせよ、まあそれだけアイデアが頭であふれかえっていたのでしょう。
いまでは逆にショートストーリーや漫画も1ページものが増えました。おそらく電車に乗り継いでいる際にちょっといいものくらいのコンテンツがこれからも量産されるのかなと思います。
私は昭和生まれなので、いまの小さい子はひょっとするとこのショートストーリーを通じて世界観を構築するのかと考えると少しこわい気がします。つまり「長いストーリーは読めなくなる」のですから。
最近では新鋭作家さん(主に海外)も、まるでツイッターのように1パラグラフごとに別のストーリーになるような、そんな小説も増えています。つまり、長編小説は(古い)という先入観というより「書けない」という感じがします。
冒頭にご紹介した知人ですが、やはり読書の習慣がない方でした。読書を比較的している私ですら、すでに長編は読めないでいます。未来はもっとすごいことになるでしょう。
いまも昔も人生というのはそう変わらない長さです。ですから、リアルはそうそう短いストーリーではありません。それを表現するにはある程度長い小説だったり、曲だったり、時間をかけた絵だったり。これは人生を選択する思考や行動にも関係していくような気がしています。
つらつらと書きましたが私もまだ「指輪物語」を読み終えていません💦
これからちょっとずつ読んでいきたいと思っています。