ただ感じること
ここ数週間、ついに自分との約束が破られてしまった。
元々このnoteを始めた時、「毎週土曜か日曜に1記事を上げる」ことを自分に約束した。
段々仕事が忙しくなると、「土曜か日曜か月曜に1記事を上げる」に目標が変わり、そして半年以上その約束は守られてきた。
しかし、この数週間、記事を上げるのは火曜か水曜になってしまっている。
書くことがなくなったからではない。
記事のストックはまだあるし、いいねが伸びないと悩んでいるわけでもない。とりあえずは「書きたいことを書く」一年でいい、と思っている。
ただ、書こうとすると書ききれない気がしてしまうのだ。今の自分が置かれている状況があまりに目まぐるしくて、何を書いても「嘘っぽく」響く。
本当にこれで全てなのか?
私が感じている感情は本当にこれだけなのか?
自分の気持ちを「言葉にできない」と感じることほど、私にとってストレスフルなことはない。
7月半ばに突然倒れ、動けなくなった父はそのまま緊急入院、手術となった。手術自体はつつがなく終了したが、その後の経過はあまり芳しいものではなかった。結局手術をしても骨転移を止めることはできず、両足はもう動かなくなった。
そしてこのひと月、大元の肝臓がんへの治療が二の次となった結果、こちらも思った以上の進行速度で進んでいることがわかったのが今週のこと。
担当の先生からは、もはやこれ以上の治療はマイナス面の方が大きいのでは、と宣告された。
リハビリをしても足が動く見込みは限りなく低いこと。
これ以上治療を続けると、今は動いている上半身も動かなくなるかもしれないこと。
先生から出てきた提案は、「緩和ケア」への移行だった。
一方で、あまりの早い展開に父の心はついていってない。
幸か不幸か、いまだに痛みを全く感じていないので、本人としては治療を続けたい。そして足も、リハビリをすればどうにかなるのではないかと信じている。
前向きなのはいいことだ。
だけど、リハビリを中心に頑張る病院に転院するとなると、将来的に今の病院に戻ることは難しくなる。いざ副作用が強くなったら、今の病院で診てもらうのが一番良い選択肢であろう、というのが私と母の本音である。
このひと月は本当に大変だった。
父が入院して、転院して、また転院して。
その合間に市役所の福祉課の人と会う必要もあり、おまけに母にも私にも仕事があった。
並行して、犬の具合もこのひと月で大きく変化した。
支えがないと歩けないところから、ついに立ち上がれなくなり、今では何をするにも一人ではできない。ご飯を食べるのも、水を飲むのも、介助がいる。数時間おきに体を動かす必要もあり、立派な「介護」が始まった。
それでも犬はひたすらにかわいい。
この気持ちも、あまり想像できない心持ちだった。
犬が若い時は、一緒に遊べるのが、懐いてくれるのがかわいいのだと思っていた。
散歩で出会う老犬がもう歩けないのをみて、「かわいそう」だと思った。
でも今、その状態になった犬を見て、感じるのただただ「愛おしい」という感情だけだ。彼女はかわいそうなんかじゃないし、私は悲しくもない。ただただかわいくて、愛おしくて、このまま少しでも苦しくなく生きてくれればいいと思う。
父が緩和ケアに入るだろうことも、悲しいだけではない。
正直、ほっとする部分がある。
下半身付随の人間を介護するのが犬の介護よりもっとしんどいことは誰でも容易に想像がつく。
介護と育児は似ているけれど、絶対的に違うのは、「それがいつまで続くかわからない」ことにある。思ったより短いのかもしれないし、思ったより長いのかもしれない。後者になった場合に、こちらが潰れてしまっては困るのだ。
何よりほっとしているのは、3月に実家に帰ってきていてよかった、ということだ。
この4ヶ月が、父と暮らす最後の日々だったのかもしれない。
それを経験しておいてよかった、と思う。
20代後半で実家を出た時は、せいせいする、と思っていた。
それくらい父との関係に折り合いがつかず、離れることでしか関係を良くさせることができなかった。
その後悔を、繰り返さなくてよかった。
犬が最後に歩ける日々に、一緒に散歩できたのも良かった。
おかげで今、後悔なく彼女の介護に向き合えている。
そう思うと、年始に大失恋したのも良かったと思えてくるから、不思議だ。
一年前には想像もできなかった出会いがあり、別れがある。
来年はどこにいて、誰と何を思うのだろう。