見出し画像

土曜日のカップヌードル

小学生の頃。
毎週土曜のお昼ご飯はカップヌードルだった。

一度食べてみて、美味しい、好きだと話したら、次の週から、ずっとカップヌードル。

まだ沢山種類が出ていない、ベーシックなカップヌードル一本でスーパーの棚が埋まっていた時期の話ね。

うちの家族は全員、野菜が好きではなく、料理も好きではなかったので、平日夕方には祖母が頑張って台所に立っているのを有り難いと思っていたし、休日の朝や昼は買ってきたものを食べるのも通常運行で、全く問題はなかった。

ただ、毎週毎週続いていくうちに、ある時、きっと少しだけ飽きたんだと思う。ふと、今日もカップヌードルだね、みたいなことを口にしたのだった。

「なんだその不服そうな顔はー!あんたが好きだって言うから、毎回用意してやってんのに!嫌なら食べるんじゃないよ!」

ヒステリー持ちの祖母が、私の言葉で鬼に変貌するまでの時間と言ったら、ウルトラマンや仮面ライダーに見習って欲しいくらいの瞬時だった。無論、当時はそんなことを考える暇もなく、カップヌードルが飛んできて、私には当たらず床に転がって行った。

祖母が突然大声を出すのは、そんなに珍しいことではないんだけど、私は延々、それに慣れることはできなかった。怒号が飛んだら、もう心臓が口から出そうで。幸いなことに出るのは口から心臓ではなく、目から涙だったけれど、ひたすら「ごめんなさい」と何度も何度も謝って、土下座して、彼女の溜飲が下がるのを待つ。

悠長に「待つ」とは買いたけど、実際は頭がパニックになってしまい、ごめんなさい以外のことなんか、わからない。土下座も、ただ殺されたくないから、怖いからしているだけで、計算づくの上「何分こうしていれば大丈夫」とか思える頭も余裕もない。

頭の上から降り続ける、完膚なきまでに私を否定していく言葉に、出てくるものなんか涙と嗚咽以外、何もない。

「結局、食べるのか食べないのかぁ!」と脈絡なく叫ばれて、食べます!食べますから!と答える。答えなきゃ答えないで、何をされるかわからない。怖い。

「最初から素直に、そう言えばいいんだよ」

そう言って、祖母は笑顔に戻る。お湯沸かして入れようね、と普段な感じに戻る。私は、そんなにすぐ笑顔には戻れず、恐怖からのしゃくり上げが治らない。

困る。祖母は、私がいつまでも泣いていると、それでまた怒り出す。「もういいって言ってるのに、いつまで泣いてるんだ」と。でも、命の危機を感じるほど怖いところから、次に怒られるまでに立ち直らなきゃなんて切り替え、凄く難しい。難しいけど、やらないと更に事態は悪化する。

感情を切り離して、その怖さや恐れは私のものではないと切り分けるスキルが身につく。お湯が沸き上がるくらいまでに落ち着いた風に見えていれば、機嫌を損ねることは、まずない。

祖母は、自分が投げ飛ばして転がしたカップヌードルを拾って、ビニールを剥がし、蓋を開けてお湯を入れる。私は笑って、ありがとうと言う。そうしておけば、問題はない。

少ししたら、カップヌードルの下方から、お湯が漏れてきた。祖母が投げた時に、カップにヒビが入ったらしい。「これ、下に置けば大丈夫よ」と祖母がお皿を持ってきた。そうだね、ありがとうと言う。そうしておけば、問題はない。

3分待つ間は、とりあえず祖母が座っていないので、気持ちを落ち着かせるのに使う。「そろそろ時間じゃない?」と優しく言われて、ありがとうと蓋を開く。

正直、まだご飯を食べられるほど、胃が落ち着いているとは思えない、けど。いただきます、と言って、美味しそうに食べる。この日までは、ちゃんと美味しいと思って食べてたし、食べ始めてしばらくすれば、味の方に神経が移動するから、食べ終わる頃には何となく、何事も無かったような感じになれる。

当時の私は、そういうことを続けていると「解離」が起きるなんて、当時は全然知らなかったし、知っていたとしても、あんなに激怒してる人と家の中で2人きり、どう対応したらいいかなんて、きっと思いつきもしなかったでしょうね。

幸い、人格レベルでお互い知らない、ほどの解離ではなかったので、知らないうちに、もう1人の私が行動していて…なんていう事態にはならなかった。

ただ、通常の生活を送る中で、自分が何をしたいか、自分がどう感じているかは、ある年代から全くと言っていいほど、わからなくなった。その方が都合は良かった。後になって、感情と行動が繋がっていないことの弊害に気づくまでは。

土曜日のカップヌードルは、遅くとも私が小学校を卒業するくらいで、習慣では無くなっていたと思う。それでも、こんな目に遭っていても、今でもカップヌードルは好きなのだ。食べる度に、この体験を思い出すわけでもないし、思い出した時でも平気でお湯を沸かして、そのまま食べている。

もしかしたら、カップヌードルは私にとって、ヒステリーな祖母に対する勝利の旗みたいなもの、なのかもしれない。祖母がどうであれ、カップヌードルは結局、美味しかった。私の感覚を、最終的には優先できた、復元できたんだという優越感。

とにかく怒鳴って全否定、自分の思い通りにならないと癇癪を起こす祖母には、最終的に土下座とごめんなさいしか、身を守る術がなかった。謝って機嫌を直してもらった後は、彼女のしたいようにさせてあげるしかない。そういう流れの中で。

それでも好きなカップヌードルを食べて、私もどうにか穏やかに戻れるケースなんて、本当に稀だったからね。

今日、久しぶりに土曜お昼がカップヌードルになったので、ちゃんと思い出して、ちゃんと言葉にして、もう思い出さなくて済むように、思い出す度に心臓が口から出るような感覚を思い出さなくて済むように、書いて置き去りにしてしまおう。

今日も美味しかったよ。

いいなと思ったら応援しよう!