ここ最近何があったのか。 簡単に言えば祖母の認知症とせん妄が酷くなり、 ある朝「どろぼー」と何度も大声で騒ぎ暴れ、 警察を呼び、 今は病院で保護入院をしている。 去年からせん妄というものがあるとは知らず、祖母の物が盗まれたやら死にたいやらが日々酷くなり、それを認知症の症状だと思い昼夜問わず聞き続けてきた私たち家族。 介護認定やらケアマネやら訪問診療などを入れ、ようやくこれがせん妄だと分かった頃には私たちではどうにも出来ないところまできていた。 毎日、毎日。 物音や、祖母に呼ば
祖母の介護をしていると、 人が一日に使える優しい言葉の数は決まっているのではないだろうか。 そんなことをよく思う。 優しくしてあげたい。 楽しい会話をしてあげたい。 そんなことを思えども、認知症介護の前ではそんなものは塵も同じだ。 同じことを数分、数秒おきに何度も。 誰かが勝手に片付けた。 お金を盗まれた。 財布がなくなった。 保険には入っているのか。 通帳にはいくらあるのか。 早く死んじゃいたい。 感情や思考の何処に何のスイッチがあるのか、もう家族には正直分からない。 ただ
猫さんについて。 今うちの猫さんは酸素ハウスの中にいる。 家の中で機械の轟音と共に。 寝てしまって意識を飛ばす感覚を短くするためにこのnoteを書いている。 8月終わりから体調を崩しはじめた我が家の猫さん。 えずきからはじまりそれがじわじわと加速していった。 喉の炎症だと思われていたものが、 つい最近のレントゲンやエコー、血液検査でよくないものであろうことが発覚した。 とりあえず胸水がたまっているのを抜いて細胞を見たら良くない顔をしているらしく、直ぐに病理検査にまわされた。
今日はなんだかんだとピアノの発表会でした。 歌とピアノで出させてもらったんですけど、久しぶりすぎて緊張してるんだかしてないんだか分からぬ間に終わっていました。笑 歌は「竜とそばかすの姫」から二曲歌わせていただきました。 この後に朗読の方がいたので、空気感を壊したくなくてはじめて座った形で歌ってみました。 曲調もしっとり語りかけるようなアレンジにしたので、全体のバランスはまとまったのかな……?と。 ただ相変わらず発表会は練習した分の7割しか力が出ないなと思い知るばかりです。
嘘をつくのが昔から上手かった。 あいつは嘘つきだから関わるなと言われたこともある。 でもそれは私にとっては武器の一つだった。 自分を、周りを守るための。 そして今日もまた一つ。 200%の嘘を鷹揚とした語り口で口から吐き出す。 きっかけは祖母の一言。 「肌着が3枚無い。〇〇(私の名前)が昨日の夜二階へお母さんに確認しにいくと持っていった」 とのこと。 実はこの話の内容は全部間違っていて、祖母の物忘れと断片的な記憶の結合からできている。 無いという肌着はもう洗ってしまってあるし
今年も一応書いてはあったりしたけれど、 なんとなくnoteにしてもなと思ったりもした。 でも一応書いたからには今どう思っていたのか後で読み返すのもいいかもしれない。 ーーーーーーーーーーー ということで、またこの日が来た。 誕生日が来る前に、私はいつも誕生日を過ぎてからの自分がどうありたいのかを想像する。 昔から結局今に至るまで、 私は"美しいひと"になりたがっている。 去年は何を思っていただろうか。 どこに美しさの重きをおいていただろうか。 確か自分を肯定していくこと。
お盆が終わった。 叔父が亡くなって一年以上。 来年はもう3回忌らしい。 月日が経つのは恐ろしいほど早い。 それでもまだ時々ぽろぽろと涙が出てくるのは、 まだ叔父の死を消化しきれていないからなのだろうか。 あの最期の日の夜。 おやすみ。 と何気なく階段を一緒にのぼって廊下でわかれた時にした挨拶が、叔父が他人と交わした最期の言葉だ。 それが私でよかったのだろうかと、今でもずっと考えている。 何気ない、また明日の朝ね。なんていう軽い気持ちでお互い挨拶したのだと思う。 でも実際、叔父
命短し、愛せよ自分。 自分を愛せるのは自分しかいない。 妹の名言だ。 こういう風に考えられるからこそ、きっと彼女は強くて美しいのだろう。 でも本音ではとても自己評価が低い子だ。 競争社会で生きてきて、音楽でも絵でも比べられて生きてきた子。 自分よりも技術もセンスも上の人間を何人も見てきたんだろう。 だからとても自己評価が低い。 私ほどではないかもしれないけれど。 だからこそ彼女は、自分で自分を愛さなければならないことを知っているのだ。 他人がそう易々と自分を愛してくれることが
作業のかたわらに流す映画は時々BGMと化す。 でもそのなかに急にふとハッとさせられる台詞があったりする。 もちろん内容無視でその台詞にハッとするわけじゃない。 今回は映画『引越し大名』を観ていて、思ったのだ。 星野源さんが結婚されたから少し観てみようという好奇心があったことは認める。 物語の中に、 "待つ苦労があれば、待たせる苦労もあろう" という台詞があるのだ。 引越しをするために役職のあったものを百姓として切り捨て?なければならなかった。 しかし主人公はまた役職を与
縁とはとても不思議なもので、 知らぬ間に結ばれ、知らぬ間に切られてしまっていたりする。 それがどうしても切りたくない縁だとしても。 望むと望まざるに関係なく。 それはきっと人に心があるからで、自分や自分以外の人々が一瞬一瞬を選び取って進んで行っているからなのだと思う。 その一瞬一瞬の選択で、縁を切られたり結ばれたりするのだ。 私はxxxHOLiCが好きだけれど、その中でも「全ては人の願い故」という台詞がある。 自分が、誰が、一生のうちに何を選び何を選ばないのか。それは人それぞ
大変だった…… 幸運なことに一つのタグで何故かバズった。 バズりの定義が分からないけれど、私の中でそんな万単位でいいねなんてもらったことがない。 だからとても嬉しかった。 絵画モチーフっていう少しずるをしたような…… フェルメールにフラゴナールにドガとか名だたる画家のお力を存分に借りてしまったのは確かだけれど。もうフェルメールたちに足向けて寝られない。 鼠算式に増えていくみたいなバズりは見ていてとても不思議だった。 そしてはじめての体験に訳がわからずきっと元からいた私のフォロ
ハンドメイドの製作の傍らで観ていたはずなのに、私はいつの間にか涙を流し目を真っ赤に腫らしていた。 映画はミステリーが好きだけれど、同じぐらい愛をテーマにした作品も好きだ。 「マディソン郡の橋」はまさに愛の物語だった。 でも同時に大号泣した頭で考えていたのは、この物語は家族の重さについてを良くも悪くも描いているのだろうと思った。 そこまで考えられたのは、きっと2日にわたって映画を観ていたからかもしれない。 愛の裏にあるものを考える時間が少しばかりあったからこそ、大号泣しながらそ
エディ・レッドメインの「リリーのすべて」を観て、少しだけ思い出したことがあったのでここに書いてみる。 この物語を観て思い出したのは、昔ある男の子から告白された時のこと。 彼は集団にいても特段目立つ人ではなかった。きっと彼自身もわいわいと騒ぐ人の輪というものが好きではなかったように思う。 友達がいないというわけではなく、話しかければ返ってくるし、数人と楽しそうに喋っている時もある。はたから見た私にはごくごく普通の男の子だった。 ただ一点だけ、その男の子に違和感を感じる瞬間があ
今年初の対面販売。 結果はタイトル通り、なかなかに厳しいものだった。 今季ではかなり寒い気温の中、屋外でやるのもなかなかに厳しいものだった。 場所の抽選では通路側を引き当てたから人通りはあるのかな……?と思った。 一応あることはある。 でも客層と私の作品に不一致が起こっていた。 簡単に言えば需要と供給が全く合っていない。 でもそんな中でも同じテイストのアクセサリーを売って売り上げを出す人がいた。 その人は私と違って客層の違いがある中でも売上を出していた。 ヨコハマハンドメイド
売れるものを作らなくては。 最近その強迫観念がすごい。 ハンドメイドをやる前は自分が好きなように、ただ手の赴くままと言ってもいいぐらい何かを作る時は自由だった。 ハンドメイドをはじめた当初は自分が作ってみたいアクセサリーを作った。 でも段々と技術が上がってきて、他との差別化をはかり、一つの作品としてアクセサリーを売るようになったら、何故かとても窮屈に感じはじめてきた。 まず収支トントンになるってことは絶対に無いし、そうなれば支出が圧倒的に増える。 新作を作って数を打てばという
ヴァイオレットには、愛という言葉が良く似合う。 ギルベルトが還らぬ人となってからも、「愛している」という最後に残された言葉をずっと探し続けていた。 ドールとして生きながら、彼女はその「愛してる」をたくさんの人から、そして身の内に静かに宿った炎を自覚することで気付いていく。 たくさんの手紙を、届かぬ人へと書き続けてしまう。 作中、毎日、何をしていてもあなたのことに結びついてしまうのです。というようなことを彼女は手紙にしたためている。 それは大切な人がいる者なら、誰しもが経験があ