病めるときも健やかなる時も。#自分で選んでよかったこと
わたしは昔から母を喜ばせることが好きだった。
「親が敷いたレールに沿って」というと、ネガティブなイメージを持つ人がいるかもしれないが、わたしにとっては憧れの言葉だった。
「親が敷いたレール」
いいじゃない?それで親が喜んで、自分も納得するんならって。
わたしがマザコンなのもあるけど、母の決めたことは最後にはいつも正しかった。
母は物事の本質を見抜く力がある人なんだと思う。
そもそも思い返すと、母はわたしの決めたことにあれこれ口を出すタイプでもなかった。
わたしが外人の彼氏ができただのとカンボジアに働きに行きたいだの、訳のわからないことを伝えても応援してくれた。
母は子どもの意思を尊重してくれる人でもあった。
そんな母が一度だけ反対したことがある。
夫を家に連れてきたときだ。
しかも「娘さんを僕にください」のタイミングだった。
母は真っ向から反対したわけではない。
ただ「大丈夫なの、あの人は。」と困った顔をしていただけだ。
「夫をちゃんと知らないだけじゃない?」と結婚前でウキウキモードのわたしは噛みついた。
けど、正直に言うと、母の言葉にぎくりとしなかったこともない。
なぜなら、わたしは条件で夫を選んだところがあったから。
職業からはじまり、
海外旅が好きであること。
アニメや漫画、オタクに偏見がないこと。
東京在住のわたしだったけど、将来的には地方都市のわたしの実家で暮らすこと。
親がきちんとしてること。
長男ではないこと。
耳くそがカサカサであること(ベタベタだと体臭が今後キツくなる可能性があるとかないとか)。
条件は多岐にわたった。
その条件たちを難なく乗り越えてきたのが、夫だった。
予言めいた母の言葉は、事あるごとに頭をよぎった。
夫は運転を始めると、毎回「どうやったら早く着けるか」という、自分勝手なチキンレースを始める。
たった数分数秒早く到着するために、何度も車線変更をして、やめてと言ってもやめなかった。
夫は障がい者用駐車場に「空いてるから」と、平気で駐車する。
よく駐車してたスーパーのGoogleの口コミに書かれたときに、さすがに止めてくれたけど。
夫は溜め込み癖がひどく、住み始めたばかりの部屋はすぐ汚部屋になった。
結婚する前は知らなかった悪癖ばかりで、書いてみると我が夫ながら、とんでもないヤツだなあと思う。
結婚からいつのまにかもう5年。
わたしのとなりには、まだ夫がいる。
わたしは信じていた。
夫というか、夫の周りの人たちを。
夫の周りの人たちは本当に素敵な人たちしかいなかったから。
まずは夫の親友。
彼は日本人としてはかなり小柄なのに、それを気にする様子もなく、堂々としていた。そして知り合ったばかりのわたしにも紳士的でやさしかった。
次に夫の上司。
前の職場の上司だったという人。
年齢が一回りもちがうのに、夫は「ちゃん付け」で呼んでいる。
初めて会ったときに、なぜか一緒に焼肉とアウトレット行って、夫と子どものような目をしてバイクと話をしていた。
そして、夫の両親。
独特の、静かな世界で生きている人たち。
世界の綺麗なところだけを見てきたようなお母様と不器用なやさしさをもつお父様。
石川県の金沢市の近くにご実家があるのも魅力だった。年に1回はだいすきな石川を訪れる口実ができた。
みんな、おんなじ空気をまとっていた。
ちょっと変わってて、でも誠実であったかい空気を。
そんな人たちに囲まれていた夫が悪いやつなわけがないと確信めいたものがあった。
そして夫と結婚すると決めた、あのときの自分の直感を信じてる。
夫とは昔からの知り合いだったかのように、どんな話題でも違和感がなく話すことができて、会話のテンポ、いや生きるテンポがおなじだった。
恋愛は出会ったころは加点方式で、だんだんと減点方式になると思っているが、夫の場合は逆だった。
夫は「噛めば噛むほど味が出る」を体現したようなような男だ。
わたしと母は似ているから、母にも絶対加点の段階がやってくると思った。
母がわたしの意思を尊重しつつ、正しい方向へ導いてくれたおかげさまで、わたしはわたしの幸せの見つけ方がわかるようになったんだよ。
「病めるときも健やかなるときも。」
昔からある言葉なのに、今っぽい。永遠に人々から愛されそうな、誠実なこの言葉が好きだ。
「病めるときも健やかなるときも。」
結婚生活も長くなり、さすがに2人の生活にも慣れ、大きな喧嘩はしなくなった。穏やかで凪のような日々を送っている。なんだかんだわたしの実家に毎週のように帰っていて、母も夫も仲良く過ごしている。
当たり前のように過ぎる、かけがえのない日々。
いつかまた夫婦で道に迷った時。
積み重ねてきた数えきれないほどの「結婚した理由」を、もう一度ゆっくりと拾い集めよう。
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