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最近の記事

神不在の1日

主イエスの復活を前に 神不在の1日がなんと長いことか。 不安、絶望に飲み込まれそうになる。 暗闇の中にいる。 しかしその暗闇の中で、神は既に 働かれている。復活の準備をされている。 待つ。待つ。

        • 受難週黙想

          イエスはご自分の十字架を背負いゴルゴダに向かいました。 十字架の重さが肩に食い込み、足はよろめき何度も倒れたことでしょう。 しかし何度倒れてもイエスは立ち上がり、再びご自分の十字架を背負い歩かれました。 私たちも重すぎる十字架を背負うことがあります。病気や仕事の責任、家族の問題、経済的なことかも知れません。あまりの重さに倒れることもあるでしょう。 そのような時に思い起こしたいのです。倒れても立ち上がったイエス様を。やがて迎え入れられる神の国を目指したイエスを。

          十字架から降りない

          今年のレントは長く感じる。復活が来ないかのような気持ちにさえなる。 修練、修練、忍耐、忍耐、、 今朝は十字架にかかられたイエスが、力を放棄して、そこから降りなかった姿を黙想した。 自分とって1番重い十字架は 今、所属している共同体に身を置き続けること だ。天に召されるまでこのコミュニティの中でどのように、いかに生きるのか。 神からの召しと共同体の目指すものと現実との折り合い、優先、かつてとこれからを考え、祈りに祈ってもバランスを取るのに苦しみを感じる事が多かった。 もしも

          十字架から降りない

          キリストのもとに

          キリストのもとに

          聖土曜日の黙想

          おはようございます 聖土曜日です。 イエスは真っ暗な墓の中です。光も音も気配も無い、暗闇の中にいます。 受難日が過ぎると、気持ちはイエスの復活に急ぎます。日曜のイースターが待ちきれず、既に来たかのように、土曜日がなかったかのように過ごしています。 しかし、慌てて明日の復活に飛びつかないようにしたいのです。真っ暗な墓の中で、イエスと共に忍耐強く、復活の朝を待つ。 私達が経験する、墓の中にいるような出来事、復活の朝が来ないのでは無いか と思うような苦しみの時間も やがて必ず3

          聖土曜日の黙想

          再び「はい」の場所に

          昨日、異動で新しい教会に赴任した。 23年前にこの教会で夫と結婚式を挙げ、 20年前にこの教会で神学校の卒業と牧師按手を受けた。 初めで最後であろう、未知の結婚人生に 神と人との前で「はい」と言った。 神の呼びかけに応えて、未知の伝道者の人生に 神と人との前で「はい」と言った。 若いからこそ、分からない人生に、神と人とに「はい」と言えたのだと思う。 あれから20数年が経ち、結婚の人生、伝道者の人生に何が起きて、どの様な体験をするのかよく分かるようになった。 また新しい

          再び「はい」の場所に

          子どもなりの3.11

          それぞれの3.11を迎えた。 震災に遭った方々と比べるなら、あの時の自分の体験や記憶は、ささくれ程度の痛みだと思う。 我慢や通り過ぎたり、忘れる事が出来る、痛みだけれども、ささくれの痛みを思い返し、祈る事が自分なりの3.11だと思っている。 末娘はこの春、小学入学する。当然、3.11は体験もなく、地震は大抵夜中に起きるので、経験や体験の記憶、思いはほぼない。 もちろん保育園で定期的に避難訓練をしていて、先生から話を聞き、指示通りに避難する事で、地震や火事は大変なことなのだ、

          子どもなりの3.11

          絶対はない

          花より団子 花を育てたり、管理するのが苦手でした。生き物もそうでした。 貰って困る物一位は花束でした。 がんになったらと言って、園芸を始めたり、オーガニックな食生活を始めるなんて、私には出来ないしやだなーー と思っていました。 それは絶対にないな、と。 ところが、術後、退院し自宅に戻り、初めてリハビリ兼ねた散歩に出かけた時に美しい紫陽花に出会いました。 花ってこんなに美しいんだ、静かに黙って咲いて私達を慰め、励ましてくれていたんだ。 神様がどんな想いで被造物を作られたのか

          それぞれの気づき

          先日、夫が突然、呼吸困難になり救急搬送された。酸素濃度92%。救急隊も私達もコロナ感染を疑った。 私は救急車に同乗したが、搬送先の病院から、もし夫がコロナに感染していたら、私も濃厚接触者として入院する事になり、ベッドが2つ必要。でも私の分のベッドはない為、自宅待機と言われた。 酸素吸入している夫の姿をスマホで撮り、手を握り、救急車を降りた。これが夫と最後になるかも知れないとも思った。基礎疾患も、入院歴も、治療歴も、通院歴もない夫が、突然呼吸困難になり、死んでしまう事は通常は

          それぞれの気づき

          私じゃだめかい

          昨日、実家の両親を訪ねた。車で1時間ほどの距離で、両親共に毎日ヘルパーさんにお世話になっている。 昨日は父の体調が良くなくて、朝昼食事せずに寝ていた。病気なのではなくて、時々身体が重く怠くなるらしい。 私は老人性の鬱だなと思っている。 両親は共に20代前半で牧師になり、献身の生涯を駆け抜けて来た。牧師を引退した後に、頼まれて牧会に戻った事もあるが、今は完全に引退している。年相応に足腰が弱り認知症になり、介護施設に入所が妥当だけれど、 お試しショートスティでさえ、行きたくない

          私じゃだめかい

          甘夏

          実家から甘夏を沢山貰ったけれど、2週間程ほったらかしにしていた。家族が多いので、この類いの柑橘系は一回に3.4個皮を剥かないと間に合わない。自分の口に入る間もない。理不尽だ、、、 そんな理由で、沢山の甘夏をずーっとほったらかしていた 私は毎朝大抵3時に起きてて、黙想したり、youtbでカトリック司祭の講話を聞いたりしながら、趣味の手仕事をする。(プロテスタントに所属しているがカトリック好き) 昨日の朝は黙想の後、家族が起床するまでの時間は家族が喜ぶ事を丁寧にするよう主に促さ

          美しい中間

          夫が信徒の方々に出したクリスマスの書簡がとても心に響いた。 教会からの帰宅途中、大変な渋滞でした。コロナ禍で、車移動も増え、年末の動きと重なっています。まるで何かにかき回され悲鳴をあげているようでした。1年を終えて「明と暗に分かれた」という表現が聞かれます。それはまるで、勝ちと負け、どちらしか無い様な言い方です。神様が望まれた世界は果たしてそのような在り方でしょうか。 このような思いが去来する時、改めてクリスマス礼拝で読まれたみ言葉を黙想します。 「光は闇の中で輝いている。

          あえて動かない選択

          黙想リトリートに参加した。牧師やそのパートナーらしき人が多分半数だった。多分というのはお互いにどの教会で自分が何者かというのは詮索しない、自分からは聞かないのがマナーのリトリートだから想像なんだけど、、 でも牧師のパートナーって所作や会話で直ぐに分かる。 自分と神様の事に集中するリトリートだから極力他の参加者の世話はしない。気を回したり過度な手伝いはそれで心や霊が忙しくなるので、自分の事は自分でするのがお約束みたいな感じ。 ところが、全員が集まる時に牧師のパートナーらしき参

          あえて動かない選択

          神様の物語に生きる

          最近ふと思う。 「一所懸命生きるだけではダメなのか」と。 この週末は過密スケジュールだった。長女が大学合格し入学金や授業料を納入するのに少し焦った。次女も受験生で中学で説明会、志望校で面談。末娘は来年から学童に通うので書類を書き提出。 コロナ第3派の中、礼拝は再び休止となり1週間の流れがまた変わった。 加えて来年度の人事についてインタビューがあり、時間が延びて昼食を5分で作り次の予定の為急いで家を出た。 用事が済み帰宅すると夕食の支度。メニューが思い浮かばない。 必死に懸命

          神様の物語に生きる