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願うばかりである

信心にもいろいろあって、拝む所により、ほかほかには祟り障りを言う所もあるが、此方には天地の親神様へ災難事はいっさい取り払うてくださるよう願うばかりである。

たとえて言えば、子供が集まり遊んでおり、中に悪いことをして弱い子供を痛めておる所へ、その親が行き見つけると、悪いことをしていた子供は、すぐに赤い顔して逃げる。

 金光教教典
 393頁
 山本定次郎の伝え
 57

おはようございます。

災難事は、これまでの無礼の積み重ねがめぐりとなって起こります。何かの祟り障りではありません。

ですから、災難事が起きれば、これまでのご無礼をお詫びして改まりを約束し、神様にお願いする事でおかげを頂きます。祓ってもらうとか、祈祷してもらうことでおかげを頂くのではありません。

その災難でさえ「難はみかげ」とおっしゃいます。
難儀は困ったことではなく、改まりと学びの機会です。

「たとえて言えば」と子供のことを例にしておっしゃっていますが、災難もそうして逃れさせていただくのだと、そのことを教祖様は学ばれたということになります。

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このコロナも、一つ一つ、一日々々おかげを頂いて、しのがせていただきながら、終息をお願いさせていただきたいと思います。

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