論理的に考えて「絶対に我々はコミュ障」
「基本的に我々は他者を理解することはできない」
高校生くらいの時に、友人に言って呆れられたことがあります。
説明するのにした話が、、、
「青色のボールをみて『青色』と言っても、相手にはそれが赤色のボールに見えていて『赤色』と聞こえているのかもしれない」
という話です。
この考え方は私の根本を作っている、、、かもしれません。
これは世界五分前仮説と似ているようにもみえます。
コミュ障とかいう言葉がありますが、根本的に全ての人がコミュ障のはずです。
「青色のボールをみて『青色』と言っても、相手にはそれが赤色のボールに見えていて『赤色』と聞こえているのかもしれない」
『物を見る』という行為は「光」が網膜上の視細胞(錐体細胞や桿体細胞)に当たることで神経に信号が渡って、それが脳に届いて「見えている」と認識しているだけです。実際にその「脳に届いて見えている」部分がどのような機構でどうやって「見る」という行動(行為?)をしているのかはわかりません。
同様に私が話す言葉は『青色』という音節として喉が震え、空気を震わせ、相手の耳に届き、鼓膜が震え、アブミ骨に伝わって前庭・基底膜が震えて、「それが脳に届いて聞こえている」という認識が発生するわけです。
「私の脳とあなたの脳が同じ様に受けとる事ができている」と証明することはできるのでしょうか?
「脳磁図で同じ反応をしているから同じである」という事はできるのかもしれませんが、私は疑い深いので「その脳磁図が私とあなたで同じものが見えているという証明はできるでしょうか?」と聞くわけです。おそらく、この先証明を説明されても同じようなことを聞いて・答えて、を繰り返すだけで明確に「証明できた」とはならないと思うのです。
コミュニケーションを取るために必要である「感覚」というものは、それぞれの人の脳の中でよくわからない処理をしていて、、、。
それが自分と自分以外の人とで同じ処理をしている(同じ音が聞こえている・同じモノが見えている)ということは「絶対にそうである」とは言えないと思うのです。
だから、私もあなたもみんなコミュ障なはずです(笑)
高校生の頃に思っていたこと
・「だから相手を信じるとか信じないとか、自分ではどーしようもない」
・「だって、言葉が通じてること信用してないと会話できないもん」
結構本気でそう思っていました(し思っています、未だに。、、、ガキンチョのままです、お恥ずかしい)。
全員がコミュ強かもしれないし、もっと混沌としているかもしれない
話をまとめない方向へ進めてみます。
「青色のボールをみて『青色』と言っても、相手にはそれが赤色のボールに見えていて『赤色』と聞こえているのかもしれない」
「青色」が「赤色」に見えていて、「青色」が「赤色」に聞こえているのなら、ちゃんとコミュニケーションは成立しているんだから、全員コミュ強のはずです(笑)
さらに混乱させるなら、、、
「青色のボールをみて『青色』と言っても、相手にはそれが赤色の箱に見えていて『箱』と聞こえているのかもしれない」 という可能性もあるわけです。
「青色のボールをみて『青色』と言っても、相手にはそれが赤色のボールに見えていて『赤色』と聞こえているのかもしれない」
これは「間違っている」と証明することも「正しい」と証明することもおそらく出来ないと思います。可能性は上に書いたような事があるかと思います(別の可能性もまだあるのかもしれません)。世界五分前仮説と同じで「このコミュニケーションがどのような成り立ちで成立しているのか」を証明することは無理なんだろうと思います。
数学だとこういった場合「答えを併記」するわけです。「場合分けして両方書く」とかしたりします。
ですので同様に書くとすると、こういった問に対しての答えは、『そうだ/そうではない』という可能性があって、それが同時に存在すると思っています。
だから、どうした?
どうもしません。
うまくコミュニケーションが取れない時、それは自分が、、、ではなく「世界がそうできているんだからしかたがない」と思えばいいだけです(笑)。
ヒトの脳みその中で考えたものを相手に伝えることは根本的に(理論的にどれだけ考えても)スタートラインで破綻しているんです。上で書いたとおりです。伝えるというのはそれほど難しいことだし無理なんだと思うのです。
だからこそ、しっかり相手に自分が思っていること・感じていることを伝えるべきだと思っています。伝えたつもりでも伝わらないんです(理論的にどれだけ考えても)。でも伝えなければ相手は「理解できない」です。理解してもらえないことが「自分にとってよくない」と思うのなら、どれだけ時間がかかろうとも自分が感じたこと・思った・考えたことを伝えて、、伝えようとして、、、伝えれたらいいなーと思って、、、としていると、伝わるんじゃないかなーと思っています。
ただ、勘違いしてほしくないのですが、「伝わるんじゃないか」と期待して話をしても「そうではない」という答えも同時に存在しているのです。私たちのコミュニケーションは、スタートラインで破綻しているんです(理論的に、略)、それは忘れてはいけないと思っています。
だから、どうもしません。どうしようもないので。コミュニケーション論とかよくわからないのです(コミュニケーション論が悪いと思っているわけではないです)。
コミュニケーションの基本は「相手を信じること」ではなく「相手を信じる/信じないこと」が同時に存在する状態だと思っているのです。それは同時に存在してもおかしなことではないと思うのですが、、、(極端な考え方なんだろうな、と自覚してます)。
注) お気づきの方もいると思いますが、数カ所論法がおかしいです。
例) 「私の脳とあなたの脳が同じ様に受けとる事ができている」と証明することはできるのでしょうか?という問いかけは「消極的事実の証明の困難性(≒悪魔の証明)」とかで使われる論法で、明確に答えが返すことが出来ない問いかけ方になっているかと思います。が、それ以降でありうる可能性を列記して、、、と繋いでいるので許してください(笑)
それ以外にも論が一段飛ばしだったり五段飛ばしだったりするところがあると思います。気がついた方はご連絡ください(私の脳みそは自分が考えた方法でしか書けないのです、、、)。