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ストリップ資料けんさん6 「清談.性談.聖談そして雑談」 小沢昭一 (白川書院)

 以前小沢昭一氏のCD「まいど日本の放浪芸 一条さゆり 桐かおる」を紹介した。故小沢昭一氏は、ご自身でも口外していたが、大のストリップファンであった。ご自身も俳優であるため「演じる」ことを一生懸命にやる人が好きだったんだと思うし、俳優の元祖「放浪芸」がとりわけ好きであったようだ。

 この本書では、各界の異人と対談し、その文化の奥深いところまで突っ込んで話をしている。これは小沢氏の人徳のなせる技なのだろう。私がこの本書で取り上げたいのは二人の人物なのだが、本の紹介としてそれでは片手おちなので、対談のお相手を全て紹介しておく。
田中小実昌、三隈治雄、松永伍一、あがた森魚、ソンコ•マージュ、木元教子、石垣純二、吉行淳之介、益田喜頓、尾崎宏二、戸板康二、井上ひさし、秋元松代、長谷部慶次、広瀬モトミ、小月冴子、都家かつ江、朝倉摂、土屋耕一、深井俊彦、中谷陽、以上である(目次順)。
 それぞれの対談も小沢氏の鋭いツッコミ意見があり、勉強になる。

 しかしここでご紹介したいのは最後のお二人、深井俊彦氏と中谷陽氏である。戦後すぐストリップ劇場ができた直後からこの興行に関わり、裏の裏まで見てきた人物たちだ。
 
深井俊彦氏。演出家、振付師。昭和26年(1951年)に大阪へ行き、その後劇場の雇われ社長となる。そんなわけで関西、九州方面の踊り子事情を語っている。

 その頃(昭和26、7年頃)、関西で「外人ヌード」を入れたり、興行としての「女子プロレス」の会社が4つもあったそうだ。異色ショウは総じて関西から始まっている。自由なアイディアで作り出すのが上手い気質があるのだろう。

 関西、九州方面は、チームショー、いわゆる「一座」で成り立っていた。踊り子8人、コメディアン2、3人、バンド3、4人。この中に「特別出演(特出)」と呼ばれるオールヌード(チラ見せ)する子が一人入っていた。彼女らは踊れないので、「アクト」と呼ばれるお客とゲームしたり、お酒をサービスしたりと、お客様のサービス係であった。
 「入浴ショウ」が出だした昭和28、9年。入浴ショウは魅せるショウではない。これは家庭の、現実を再現している。大きなタライで行水したり、木製の風呂桶をステージに置いたりして、お客をあげ、背中を流させた。これが大当たりであった。深井氏は昭和31年頃大阪のとある温泉劇場の社長であった。そこそこ大きい劇場だったが3600人の動員があったと話している。この大当たりを見て、大阪や名古屋ではステージ横に風呂場を作ってしまったという。

 そうか!私がストリップデビューした1986年以降でも、地方の一部の小屋には舞台のソデに風呂場があった。もはや<無用の長もの>である。ラブホテルにあるような透明な風呂場。シャワーはまだ生きているので、そこにカーテンを付け客席から見えないようにし、踊り子のたちの風呂場となっていた。これが不便でならない。シャワーの音が舞台に響く。私が小屋に出ている間で、この風呂場が取り壊された小屋は1カ所しかなかった(他は取り壊す前に小屋が潰れている)。この不便な風呂場の背景は「行水ショウ」だったのか。

  昭和28、9年(1953、4年)頃、関西を回っていた一流ショウは、「東京ショウ」「メトロショウ」「キットヒットショウ」「アポロショウ」「アカデミィショウ」「ルミー芝ショウ」「東京ファッションショウ」「ヘレン松原ショウ」「東京ニューヨークショウ」「モダンアートショウ」「ニュー東京ショウ」「金粉ショウ」(のちに「百万弗ショウ」)などであった。
 今となってはこのショウの内容もわからないが、明らかに「花のお江戸、東京から最新のショウがやってきた」という感じである。

 そしてこの頃、昭和29、30年頃。横浜の普通ショウ(脱がない踊り子)をしていたあの一条さゆり嬢が「岐阜セントラル」でストリップに登場したそうだ。日舞をしていたが、深井氏が洋舞に変えさせた、と話している。

 九州方面は女剣戟のチームが多かった。しかし剣戟ブームも去ったあと、座長だった男役者はコース切りになり、座員の女たちを日舞ストリップで回すようになった。

 これまた納得いく話で、日舞の姐さんたちは九州出身の人が多かった。成る程、いろんな所で疑問に思っていたことが紐解けてくる。「話を残す」大切さを実感する。

 そして「戦後ストリップ史Ⅱ」として紹介される中谷陽氏。大阪で著述家でありストリップ専門誌「ヌードインテリジェンス」を自ら発行していた(昭和41年12月号〜? 1982、3年ごろまでは続いていた)。ストリップ劇場と深いつながりがあったからか、コース切りもやっていたようだ。

 東京でストリップが出始めて、すぐ地方に回ったのが福岡だった。昭和21年。出来立てのホヤホヤだ。昭和22年になると関西でブラジャーを取り、スパンコールを乳首につけていた。特別製の物では無いらしい。素材のスパンコールを米粒でつけていたそうだ。
 そして深井氏のところでも書いてあったが、関西のストリップ劇場のコースは「九州チーム」、サーカス団の「島田サーカス」、温泉場の「温劇グループ」と3つの系統があった。

雑誌の記事より。空中ストリップだが綱渡りである


 その中の「九州チーム」の一つ、女剣戟では下関の「豊前座」という所がコース切りで、「水島早苗チーム」があったと書かれていた。
 
 水島早苗氏、ようやく記録が出てきた!これは私の「パフォーマンスいわれ14 娘道成寺」に書いたことだが、縁あって水島氏を紹介して頂き、水島氏の愛着がある衣装を私が譲り受けたのだ。そして衣装を使うごとに関係者に水島氏の話をしていたが、知っている人は皆無であった。ただ一人、名古屋「鶴舞劇場」の当時の社長だけが知っていた。「私が子供の頃、この小屋にも来て<座長水島早苗>という赤い登りがたくさん立っていた。それが目に焼き付いている。そして凄く入った」と話していた。

 関西でのそれぞれのチームは結局のところ皆、縁続きで、関東へそれぞれ暖簾分けして、小屋主になっていったそうだ。これは関西独特の商売のやり方。関東は「一国一城」という考え方だが、関西は暖簾分けして増やしていく、という商売方法であった。

 「レズショウ」の始めも九州からであった。あの「桐かおる氏」である。いや、早くから「レスショウ」はあったが皆ニセモノ、いわゆる商売的に作られたコンビであったが、桐氏は本物である。本物のレスであるため中谷氏は破格の5万円というギャラをつけた(これはトータルなのか、1日なのか書かれていないのでわからない)。これによってレスショウが増えていった。特に日舞の踊り子は、衣装やカツラ代がとても高いのにギャラは変わらないわけで、特出しなくても、ギャラアップならレスショウをやる、といった踊り子が多かったという。

 そして昭和41年(1966年)頃。特出の子でなくともトリの踊り子は責任感から、皆ツンを取るようになり、バッチリ見せるのもこの頃からであったそうだ。

 ショウから生身へ。ストリップが別の路線へ走り出した。これは致し方ないことであろう。人間の欲望は加速していく。
 この対談を読んで、関西の創世記がよく分かった。東京、浅草については様々な著名人が書いているが、関西方面のことはさっぱりわからなかった。なのでこのお二人のお話は記録としても大変貴重である。


(株)白川書院1974年発行 装画和田誠

 余談であるが、この本は古本屋巡りで偶然見つけた本。現在のネット検索は、本のタイトル、著者が分かっていれば立ち所に見つけられ、日本全国、いや海外からでも本を買うことができる。もちろん便利で、私も大いに利用しているが、古本屋巡りの楽しさは「偶然の出会い」であると思う。意図していない本を発見する事がある。その場で少し立ち読みし、「この項目は探していたことだ!」とびっくりしたりする。
 本好きとしては、本屋、古本屋がどんどん減少していくのは本当に寂しく辛い。かと言って、月に何万、何十万も使って本屋さんを助けられない。言葉で「応援しています」ということは簡単だが、現実的に支えてあげられない辛さも感じる。
 あー、ジレンマだ、、、。


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