【短編小説】ヒトリ珈琲③
■ホットチョコレート~渡辺誠(30)
その日のヒトリ珈琲は、客が途切れなかった。
オープンしてから、多い日でも1日4~5人だったのに、今日は先ほど7人めの客がでっぷりとした腹をさすりながら帰ったところだ。
経営を考えれば、そりゃあ客は多い方がいい。
だいたい今時、席がひとつだけの喫茶店なんて、やる気があるのかと怒られても仕方ないレベルである。
最近、いわゆるアッパー層の客がよく来店するようになった。この辺も再開発の影響か、近くにタワーマンションができたのだ。
ブランドTシャツをさらりと着こなし、脚を組んでタブレットPCでなにやら作業する彼らは、そこの住人かなと店主は踏んでいる。
彼らは客単価も高いし、長く滞在もしない。
パシャパシャと写真を撮りSNSに投稿したら、ろくに味わいもせずあっさりと帰っていく。
そしてその投稿を見たらしい、別の客が同じメニューをオーダーする。
売上は上がる。回転率も上がる。
姉の店を夜だけ間借りしている立場としては、売上に貢献できるのはいいことだ。
悪いことなどひとつもない、はずである。
「でもなあ」
こんな風に、忙しなく客がくるくると回転する店をやりたかったわけではない。もっとこう、寡黙な客の表情をほっと緩ませるようなーー。
「…あのう、ここ…喫茶店ですか?」
おずおずと入ってきた男を見て、店主は丸い眼鏡をかけ直す。そう、こういうちょっと疲れたお客さんをもてなしたいんだよ、僕は。
見れば、黒いスーツに大きな紙袋。結婚式の帰りのような雰囲気。くたびれ果てた、というような風情である。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お掛け下さい」
店主がにっこりと誘うと、男は緊張の糸が切れたようにふうっ、とため息をついた。
「すみません、ちょっと疲れていて」
なんとなく、顔色も優れないようだ。
「ゆっくりしていってください。お荷物こちらに…これ、引き出物かなにかですか?」
ホテルの名前が印刷された紙袋を受け取りながら、店主は男の表情を見る。すこし酒の匂いもするが、上機嫌というわけではなさそうだ。
「ああ、姉の結婚式だったんです。いや、もう何がなんやら。両親は他界してますから、1人でいろんな役目をさせられましたよ」
「それは大変だ」
うちと一緒だな、と思いながら冷たい水を出す。男は一気にごくごくと飲み干した。
「ああ、生き返りました。あちらの親族が新潟の人たちで、すごく酒が強くて」
「それはそれは、先が思いやられますね」
店主がからかうように言うと、男は少し傷ついたような目をした。
「何をお作りしましょうか」
調子にのり過ぎた、と反省し慌ててメニューを出す。
男はパラパラとページをめくったが、興味がなさそうにすぐに放り出した。
「普通のコーヒーで」
「ブレンドでいいですか?」
「なんでもいいですよ。味とかよくわかんないから、俺」
「普段、あまり召し上がりませんか」
「そうですねえ、仕事中はペットボトルの麦茶ばっかりだからな」
男は、人懐っこい目をして笑った。
「お忙しいのですね。お仕事は、何を?」
差し支えなければ、と店主は言い添えた。
あそこの高齢者施設ですよ、と男は外を指差す。最近できた瀟洒な感じの施設で、評判もいいようだ。
「それは、大切なお仕事ですね」
どうも、とその男は軽く頭を下げる。
「俺、渡辺といいます。一応、施設長やらせてもらってます。毎日飯もばーっ、とかき込む感じで。何かをゆっくり味わうとか、あんまりなくて。実質、昼休みもそんなにないし」
「そうなんですか。お昼は何を?」
「弁当なんですが、バタバタして食べそびれることもあって。あ、姉ちゃんが作ってくれてたんですけどね。……残すと機嫌悪くなるし。しんどいですよ。ありがたいけど」
そうは言いながらも、冷たい表情ではない。
「一緒に住んでいらっしゃった?」
「ええ。母親代わりのつもりだったんでしょうね。いちいち口うるさくて。でもやっとひとりになれました」
口をとがらせてポケットに手を入れる仕草は、まだまだ少年のようでもある。
「そうですか。僕にはとても寂しそうに見えますが」
店主がにっこりして言うと、誠は真顔になった。
「僕の両親も早くに亡くなって、姉が親代わりでした。ここも姉の店でね。姉は常に僕の前を歩いていて、追い越せないんです。それが歯がゆいときもあるけれど、一生そんなもんですよ、弟なんてもんは」
「そう…なんですかねえ」
「ええ。僕もかなり口うるさく言われましたからね。しかもうちの姉は独り身ですから、まだまだ続きそうです」
ふうん、と誠が頷き会話が一瞬途切れるが、不安定な空気ではない。
先ほどより、だいぶ疲れの色が消えている。
「俺、今さらだけど思うんです。…親の代わりになろうとしてくれてたんですよね。5つしか違わないのに。俺、姉ちゃんには無理させてばっかりで」
この店が少しずつ、誠の言葉を滑らかにしていく。この瞬間が好きだ、と店主は思う。
僕の仕事は、これだよ。
「そういえば」
誠がふと、言葉を漏らす。
「両親ね、事故で亡くなったんですよ。やっぱりショックで。しばらく何も食べれなくて。そんとき姉ちゃんがね。葬式のあと、ココアみたいな飲みもんを作ってくれたんです。……なんていうか、もっとドロッとしてたけど。普段は甘いの苦手なんですが、そんときのは旨かったな」
店主はほう、と興味深げに眼鏡をかけ直す。
「…ホットチョコレート、でしょうか?」
「そうかもしれません」
「お作りしましょうか。お姉さまの味には叶わないと思いますが」
少し考えて、誠はありがとうございます、と頭を下げた。
ホウロウの白い鍋をゆする、店主の後ろ姿を眺めながら、誠がぽつりと呟いた。
「紙にね」
店主は振り向く。
「紙?」
幸せな甘い香りが、誠の鼻先をくすぐる。
「婚姻届にサインしました。証人のところ。…だって家族は俺しかいないから。でも本当は…書かずに破って捨てたい衝動にかられました。……書いてしまえば…姉ちゃんに他の家族ができてしまうのが悔しくて。今まで散々世話になったのに、俺は…素直におめでとうも言えない人間なんです」
だんだん、涙声になっていく。
「当たり前じゃないですか」
店主の声に、誠は顔を上げる。
「え?」
「いくつになっても弟ですから。もちろん大変だったと思うけど、お姉さんだって、もしかしたらそのほうが楽だったのかもしれない」
「そう…でしょうか」
「うちの姉は、そう言ってましたよ。お母さんみたいに振る舞うことで、私は自分を保てていた、って」
店主はにっこりと笑った。
「姉弟でも、ほんとの心うちはわかりません。もちろん、あなたが無理させたのかもしれない。でも、お姉さんがそうしたかったのかもしれない。その両方だったかもしれません」
「そう…したかった?」
「かもしれない、という話です。どちらの視点で見るかで真実は変わる。相手に聞いたって、本当のことを言うかはわからない。人間関係なんて、そんなあやふやなものです。どうせ考えたってわからないのなら」
店主はしっかりと、男の目を見る。
「せめて祝いましょうよ、お姉さんの幸せを。甘いホットチョコレートで」
店主も棚から自分のカップを取り出し、僕もいただきます、といたずらっ子のような表情になる。
誠はマグカップに口をつけ、「甘っ」と言って顔をしかめ、笑った。
「お気をつけて」
少ししゃんとした誠の背中を見送り、店主は立て看板を仕舞いながら考える。
どっちの視点で見るかで真実は変わる。
さっきまで嫌気が差していた、化粧の濃い女性がピースサインで写るSNSの投稿を、店主はまじまじと見つめる。
誰が何を求めてこの席に座ろうが、自分のやることはひとつ。どう見られようが構わない。考えたって仕方ないことじゃないか。
大事なのはただ一生懸命、目の前のお客さんに集中することだ。
「僕のほうが今日は救われたな」
店主はうーん、と背伸びをしてレジを締め始める。
11月の乾いた風が、気持ちのいい夜だった。
この小説は、コッシーさんの「姉の下書きを弟は丁寧になぞる」のスピンオフです。
主人公に勝手に名前をつけてしまいました。
1200文字までに納めるのは、すっかり諦めました(笑)
おかわりは、こちら↓
ピリカグランプリの賞金に充てさせていただきます。 お気持ち、ありがとうございます!