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【短編小説】ヒトリ珈琲②
■アールグレイティー~高橋章(32)
「よかったら、ひと息つきませんか」
その男はカウンターから出てきて章に声を掛けた。
白いシャツを腕まくりして、茶色いエプロン、丸い眼鏡。にこにこと笑っている。
店に入るのを躊躇していたところを見られていたのか。恥ずかしいな、と章は苦笑いする。
ここがカフェになっているとは知らなかった。
章は戸惑いつつ、勧められた席に座った。
「もとのお店はまだ…やってらっしゃるんですか」
章が言うと、男は恥ずかしそうに笑う。
「はい、お恥ずかしながら姉の店を夜だけ間借りさせてもらってるんです。姉もお世話になってるんですね。なんだか嬉しいな」
なるほど。身内だったか。
そう言われて見れば、朧気だが雰囲気がここの店主に似ている気がする。
「ああ、弟さんでしたか。だいぶ前に、マグカップを買ったことがあるんですよ。本当に長いこと、こちらでお店やっていらっしゃいますよね」
この商売の難しい時代に、よく続いているなとお世辞抜きで思う。雑貨類は特に、難しいだろうに。
「そう言っていただけると姉も喜びます。姉は凝り性というか、僕なんかから見ると採算度外視でやってる感もあるんですけど、昔から頑固でして。店舗と同時にネットショップもやるのが主流なのに、顔の見えない人に売るのは嫌だ、といまだに対面販売だけでね」
男はメニューをとん、とテーブルに置いた。
手触りのいいテーブルだ。どっしりして心地よい。
「だから誰に何を販売したかよく覚えてるんだ、ってドヤ顔で言ってますよ。お客さまのことも、覚えてると思います…よかったら、どんなカップを買っていただいたのか、聞いてもいいですか」
「ああ…いや…もう10年くらい前だから」
章は言葉を濁す。
男は察したような表情で頷く。
「そうなんですか。じゃあここがオープンしたての時かな。ほんとに、長くお世話になってありがとうございます。…あ、すみませんおしゃべりして。お決まりになりましたら、声かけてください」
男はカウンターの奥へと入っていく。
感傷的になるのはごめんだ。
特に、こんな夜は。
「ねえ、これすごく可愛い。章くんの部屋においてもいいかな?」
まだ学生で、付き合いはじめたばかりだった。章の殺風景な部屋に、少しずつ彼女の色が混じってくる。コーヒーにミルクが溶ける瞬間のようなくすぐったさ。
それは恥ずかしいけれど、誇らしいものでもあった。
彼女が選んだのは、微妙な色合いのマグカップだった。ピンクのような、グレーのような、春先の霞のような色。ぽってりとした形で、彼女の小さな手のひらに気持ちよく収まっている。
「もちろん」
章は言った。
なんならプレゼントしてあげようと思って値札を見て手が止まる。
学生が買うにはすこし、値の張るものだったからだ。
彼女はさっ、とレジへ向き直る。
「ありがとう。でも自分で買いたいのよ。私ね、章くんと一緒にいて、けっこう優しくなった気がするの。このカップの色みたいな」
確かに。
付き合う前の彼女は自分の意見をはっきりと言う、凛とした印象だった、と章は思う。
強くてぶれない彼女も、リラックスしている彼女も素敵だ。
自分がその優しい色を引き出せたと思うと、章は嬉しかった。
「うん、これほんと素敵。値段も結構するけど、またバイト増やせばいいし」
「これ以上いれたらきついんじゃない」
「平気よ。働くのは好きなの」
「いまだって課題やる時間ギリギリだろ?」
レジ前でああだこうだと話す章たちを見かねたのか、あの時店主は言ったのだ。
「お客さま、こちらの商品…少し色むらがあるようです。もしよければ、アウトレット品として2割引にさせていただいてもいいでしょうか」
もちろん大歓迎だった。
「あれはきっと優しさね。私たちとあまり年は変わらないようなのにすごいわ。私もあんなオトナになりたい」
後々まで、彼女は感心していた。
「お決まりですか」
男の声にはっ、と我に返る。
「ああ…すみません。つい懐かしくて。ちょっと待ってもらえますか」
あわててメニューを見る。
「もちろんですよ。…でも、もしよかったら、なんですが。僕に見立てさせてもらえませんか」
男の目はきらきらと輝いて見えた。
「あ、はい、助かります。正直こんなお洒落な雰囲気に弱くて。ダメだな、僕は」
章はメニューを閉じる。
男は頷いて笑う。
「わかります。だからこの店のテーブルをひとつだけにしたんです」
「と、いうと?」
男はカウンターに入りながら言う。
「僕は同時並行が苦手でして、あれもこれもできないのもあるんですけど。1人だけのお客様に全集中したいというか…お客様にも、誰の目も気にせず時間を過ごしていただきたくて。いやあ、姉に負けないくらい商売ベタだなあ、僕も」
「いや、助かります」
章には珍しく、ぽんと言葉がでてくる。
「酒が飲めればいいんだろうけど、僕はそっちもあんまりで。でもこういうカフェはほら、女性のものって気もするし、入るのを躊躇していたんですよ。ひとりでは、なかなかね」
「ここは、ひとりになれる店です。覗いたときに席が空いていたら、たぶん呼ばれたってことじゃないかな」
「呼ばれた?」
章は男の言葉を繰り返す。
「レモン、お好きなんですか」
唐突に聞かれ、ふと手元のビニール袋を見る。
確かに、スーツ姿の男がレモンだけの袋を持っていたら不審に思われるかもしれない。
「ああ、いや…なんか習慣になっちゃって。昔付き合ってた人が、何にでもレモンをかける人でね」
「僕も時々やりますよ。意外とご飯にも合うんですよね」
男はうんうん、と頷く。
「なんとなく、いつも切らさないようにしているんです。…そのまま、悪くしてしまうことのほうが多いんですけどね」
「そうですか」
男は神妙な顔で頷く。
「待ってらっしゃるんですね、今でも」
「待っているのかな…自分でもわからないんです。彼女はもう結婚してるんです、知らない人と。でも、時々会うことがあって。親友っていう立ち位置で。でも会うとその度に…苦しくなる。慰めて紳士ヅラして送り返して、また眠れない夜が来るんです」
言葉がどんどんと流れてくる。そして、その膨大さに溺れそうになる。
章は続ける。
「でも待ってるんでしょうね。だからこの街から動かない」
「レモンだって切らさない」
男がすっ、と言葉を挟む。
「そうだな。レモンも切らさない」
二人で、あはは、と笑い合う。
「馬鹿みたいでしょう。いい大人が感傷にふけってしまって、すみません」
「いいえ。思いを馳せられる人がいる、ってとても贅沢なことだと僕は思います。でも少しでも眠れたらいいですよね」
男はとん、とティーカップを置いた。
「紅茶ですか。なんだろう、いい香りがしますね」
章は香りを吸い込む。
「アールグレイティーです。交感神経を抑える効果があるんです。ちょっと蒸し暑い季節ですが、ホットにしました。ベルガモット、という柑橘の香り付けがされてるんですよ。レモンと違って、食べれませんけどね」
男はまた、にっこりと笑う。
押し付けのない優しさが心地いい、と章は思った。
「また来ます」
章は一礼して、店を出た。
ここに来たときの、心許ない気分は消えていた。話せてよかった、と思う。
「さあ、帰るか」
小さな、ひとりきりの、
レモンのある部屋に。
みんな大好きあやしもさんの「レモン」の章くんにご登場いただきました。
とっても素敵なお話すぎて、スピンオフを書いちゃいました!あやしもさんすみません(笑)
さあ!
レモン論争の続きやろうぜ!(笑)
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