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【短編小説】da capo~もう一度はじめから

.「だいたい、なんで私がこんなことしないといけないのよ」

ベンチに腰かけたマリコがふくれている。機嫌が悪そうに見せているが、目の奥は心配そうに揺れていた。

「ごめん、でも助かった」

笑顔を作ろうとしたが、ここのところ人と話していなかったので、うまく笑えない。


僕たちは、2年前まで夫婦だった。

もうあなたとは暮らせない。そう言って離婚届に署名して置いていってから、僕らは今、はじめてまともに顔を合わせた。

子供もいなかったし、仕事や付き合いで毎日帰りが遅かった僕とマリコは、完全にすれ違っていた。

いつかちゃんと話し合おう、そう思いながら実際には向き合うのが怖くて、マリコの要求を呑む形で、僕も書類に名前を書いた。


「親父が君に電話したんだよな。・・・申し訳なかった」

僕は、丁寧に詫びる。

「そうよ、他にこっちに知り合いがいないからって、私はもう他人なのよ。ホントに迷惑しちゃうわ。ちゃんとお金は清算してもらうからね」

マリコがレシートの束ををばん、と放る。

僕は今日、やっと保健所からのOKがでてお役御免になったばかり。昨日まで例のウイルスの陽性者として駅裏のビジネスホテルで療養中だった。

職場でいわゆるクラスターが発生したのだ。僕も微熱が出るくらいのごく軽症ではあったが、経過観察を余儀なくされた。

保健所の聞き取りで、男の独り暮らし、県外の実家には高齢の父がひとり、という状況を可哀想に思われたのか、自宅ではなくホテル療養となった。

保健所の連絡を受けて、パニックになりかけた心配性な父が、他に誰も頼れず携帯の通じるマリコに連絡したらしい。


マリコは、十分すぎるほど父の頼みを実行してくれた。

会社帰りに食べ物と飲み物を差し入れしてくれたり、ポストの郵便物をとってきてくれたり。

引き受けたことは、私情は置いといてちゃんとやる。それがマリコの性格だ。

僕はレシートを手に取る。

「もちろんだよ。ほんと、ここの弁当だけじゃ正直飽きちゃってたから、君の差し入れはホントにありがたかったよ、ありがとう」

僕は素直に頭を下げ、現金の入った封筒を差し出した。

誰にも会えず、おなじ陽性者の人たちと食事を取りに行くときにすれ違うだけという生活。

実際、時折外からの差し入れがある、というだけで、僕の心は温まった。


会社の連中も、今は僕と似たような状況だ。

家庭のある友人にわざわざ連絡するのも気がひけた。

大袈裟ではなく、この広い世界でマリコ以外誰も頼れなかったんだ。


「俺の好きなサンドイッチ、覚えててくれてうれしかったよ」

僕が言うと、マリコはふっ、と笑いかけてあわてて口を尖らす。

「そりゃ・・・そんなに短期間じゃ忘れないわよ。何年一緒に暮らしたと思ってんの」

「4年と8ヶ月と10日」

「は?」

「4年と8ヶ月と10日だよ」

きょとんとしているマリコに、僕は繰り返す。

「なにもやることなかったからさ、手帳みて数えたんだ。俺たちが一緒にいた日数」

「あ・・・そう」

「で、俺が家に帰らなかった日が、累計で1年と2ヶ月と22日だ。ひどい男だよな」

マリコが唇をきゅっ、と結ぶ。


「ふうん、そんなに暇だったの。まあ、いいわ、お父さんとの約束は守ったわよ」

マリコがカーディガンを羽織り、バックを肩にかける。ワイン色のカーディガンがよく似合っている。

一緒に暮らしていた頃より、彼女は何倍もきれいだ。当然だ。僕の帰りを待つ時間が彼女を疲れさせたのだから。


行くな。

言うなら、今しかない。

今を逃したら伝えられない。


「あのさ」

僕はマスクの下で、精一杯声を張り上げる。断られても仕方がない。

声がちゃんと出ない。

寝てばかりいたのでまだ体力がもどってないのだろう。


息を吸い込む。

がんばれ、ちゃんと伝えろ。


情けないけれど、声がふるえた。

「俺たちまた、1日目からはじめないか」


マリコはゆっくりと首を振る。

「またダメになるだけよ」

「ダメにはさせない」

「やり直そうってこと?」

「似てるけど、ちがう。また1から始めるんだ。籍も戻さなくていい。もちろん、君がまた無理だと思ったら、君のタイミングで出ていって構わない。君はなんの責任も負わなくくていい。しばらく出張もないし、もう飲みにもいかないよ。約束する」

僕は汗びっしょりだ。

「君のことを知ってるようで、俺は何もわかってなかった。何が好きで、何をしたら嬉しいか。聞こうともしてなかった。だから、もう一度最初から始めたいんだ」

マリコの目が、探るように僕を見つめる。僕も見つめ返す。背中を汗が伝っていく。

買い物帰りの主婦が、怪訝そうな顔で通りすぎる。

マリコが、ぷっ、と吹き出したように笑い、そしてハンカチで目元を押さえる。

「悪くないわね」

秋の風が、柔らかくマリコの髪を揺らした。





















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