育てつつある自覚
休日を3日も過ごしたのに整わない。
自分でお尻を叩けば奮い立つこともできるけれど、どうにも元気が出ない。行った方がそりゃあいいけど行かなくてもいいならばごめんなさいと思い、今日は仕事をお休みさせてもらった。
午前中はずっと寝ていて、午後になってのそのそと起き出して、先日水煮にしたタケノコでメンマを大量に作り、昨日まずく出来上がったかぼちゃサラダをスープに変える。
たいして何も得ることがなかった妊婦のための料理本を読み終え、ずっと前に友人から借りた本をぱらぱらとめくる。その本に、私が今まさに知りたかったことが載っていた。昭和44年に書かれた本。随分と昔の本だが、ありきたりな使い古されたことばでない経験則が淡々と記されていて夢中になった。
そしてふと、今日は仕事を休んでよかったと思った。それまで、ずっと後悔と後ろめたさにうなされていた。頑張れば行けたかもしれないのに、頑張れなかった自分に対して。馬力がでない弱い自分に対して。しかし、ふと私が後ろめたく思っていたのは、「休む」という行為自体に敗北感を感じていただけかもしれないと思った。
例えば今日仕事に行けたとして、雑用をこなし、社会の歯車の一員として働いている実感と疲労感はそれなりに感じることができただろう。でも、今日ゴロゴロいう腹の機嫌に合わせて身体を休め、心を解放し、自分が今欲しがっている知識を得られている今の状態の方が、実は健康的かもしれないと思った。
その本には、こんなことが書いてあった。
育てつつあることを自覚した母体は、その食べるものでも、動くことでも、体内の要求を第一にすることが先ず必要であると気づくに相違ない
『育児の本/野口晴哉』
妊娠中のこの時期はこの食材を摂取せねばならない。それを知識として叩き込んでいた。でも、食べようと思ってもどうも喉を通らない時がある。頭ではわかっているのにできないことにフラストレーションが溜まっていたが、これは胎内の要求だったのか。夕べ突然立ちくらみと吐気にうずくまったのも、この子の仕業なのか。あの目眩が運転中に来たらと思うと怖くてどうしても気持ちが前向きになれなかったのは、今日は休めというメッセージだったのか。
医学的に説明されたものを読んでして納得しようとしてもどうもしっくりこなかったことが、すっと入ってきた。
「気が済む」「納得する」とは、こういうことなのかなと思った。自分が納得できると、初めてそれを受け入れられる。そういう小さな葛藤の繰り返しで、自分の身体の小さな声を聞き、迷いながらも少しずつ変化していっている。今自分ははそんな渦中にあるのだと思った。
育てつつある自覚。なかったなあ。すまん、お子よ。
(17w4d)