うそつき 作者の嘘

先日、初めてnoteでシナリオ形式で投稿した「うそつき」シリーズ全4話が完結しました。

私にとっては挑戦でもあり、はじめてシリーズものを投稿しましたし、シナリオ形式も高校生の演劇部以来なので、これで良いのか果たしてわからないまま、どきどきしながら投稿しました。しつこく書くからかもしれませんが、たくさんの人に読んでいただきまして、本当にありがとうございました。感想もたくさんいただきました。

noteに投稿するまでは、他の投稿サイトに少し公開したり、ごくごく身近な友達に読んでもらったり、少しそういうこともしていましたが、読者の方とあれこれ語り合うことはすごく少なかったです。でも、楽しいものですね。子供の頃は、誕生会のための劇の台本書いて友だちと発表したり、文化祭の劇の脚本書いたり、つくった童話を読んでもらったり、好きな曲の歌詞を変えて歌ったりしていたことを思い出しました。創作して、それを形にしたり人と共有することは自然なことだったのに、いつのまにか、そういう場所から離れるようになり、自分ひとりの世界に閉じこもるようになっていました。

きっと、ひとりに自信がなかったから、だと思います。私もさくらと同じように、夫や、友だちや、職場の同僚や、店員のような赤の他人にさえも、いい顔をして、相手の望む自分でいることを優先することが多かったです。それは、自分に根拠のない自信があったときから、簡単に転落したので、もう自分では何も考えない人形になろうと思ったからでした。自分のしたことに責任を持つのが辛いから、誰かのせいにしたかったんです。

2年前ぐらいから、そういうのをやめて、人にとっていい人、どうでもいい人になるのはやめて、人にとっては悪い人になるかもしれないけど、自分の信じることをやっぱりやらなきゃ、と思うようになりました。一度後悔したけど、今度は違う形でできるかもしれない、あのときより強くなっているはずだから。
ひとりの自分が嫌な時に閉じこもって、ひとりでいることが平気になってから交流できるようになるって、なんか変なようですけど、案外そういうことなのかもしれません。

そう、その2年前に、「うそつき」シリーズは小説として書き始めました。誰にも見せるつもりはなく、自分に必要な物語だからというだけでした。でも、今になってみれば、書き直して公開してよかったな、と思います。noteのユーザーさんは、やはりクリエイターということもあって、感受性も素晴らしいですね。私の拙い表現に対する読解力にびっくりしました。こんなこともわかってくれるんだ、と思いました。本当にすごいです。ありがたいです。

そして、創作することは、自分を解放することだと、改めて思いました。私は高校生のとき、演劇部だったのですが、演技に大切なのは、うまく演じることではなくて、自分の知らない自分、普段の自分が押し込めていた自分をどれだけ解放するか、さらけ出すか、だと思っています。演技の上手い下手より、自分をより解放できる人の仕草やセリフのほうが、心に残る。演じていても、自分でも気持ちがよく、観客や演出家の評判がいいときは、自分のなかから、自分だけど自分じゃない何かが、開いて、出てくるときのように思います。

今回、「うそつき」シリーズを書いていて、特に最終回の「店員の嘘」では、自分のリミッターをどこかしら解除できたような開放感がありました。妄想全開ってだけですけど。
技術や、面白いだろう、みたいなのが頭からすっ飛んで、自分では知らなかったはずの表現が現れました。

もしかしたら、こういう書き方は、素人だからできるのかもしれない。そう思うと嬉しくて嬉しくて。

だって、楽しいんだもん。

そっか、だから書きたかったんだって思いました。やっぱり、人形の家を出よう。誰かの悪者だっていい。理想通りじゃなくていい。どうせだめでもいい。やりたいようにやればいい。私は窮屈な自分から解放されたいんだから。

さて、作者はどこで嘘をついていたでしょう?
嘘のない文章を心がけたつもりですが、もし嘘を見つけたら、、それは本当にごめんなさい。

#エッセイ #うそつき #完成記念 #人形の家 #からの脱出



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