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読書感想文 解鍵師

私が大学生の時に住んでいた京都のアパートメントは鴨川から少しだけ離れた位置にあって、ロビーにはオートロックが付いていて、初老のおじいさんがいつでもロビーでコンセルジュのふりをしているような、そんなアパートメントだった。そのようなアパートメントであったから、私の部屋にはいつも鍵をかけていなかった。

鍵というものは、閉めてある状態が通常なのか、開いている状態が通常なのかどっちなのかわからないのだけれど、私としては閉めてある状態のそれを、通常としたい。
始まりかがなければ、終わることを難しいと小林大吾が歌うように、鍵は閉まっていなければ「ロックアーティスト」マイクルでさえ開けることは難しい。何故ならそれは既に開いているから。

私たちは小学校の教室や高校の帰り道でこの世の全てともいえるような体験をする。その体験を世間では恋と呼ぶという事を、テレビから流れる女性歌手の曲で知ったりする。しかし私たちはいつのまにか、その体験だけに名前を付けておいたはずの恋という名前を、他の体験にも使い回すようになる。私たちは語彙力がない。全てを恋で一括りにして、恋の素晴らしさ日々インターネットに放り投げていく。

マイクルは喋ることをやめた少年で、彼は金庫破り。エメリアは早熟な少しだけヤバめの少女で、その美しさはガラスのようで、しかし確実に生きるものが持つ温かみを持っている。

解鍵師は「ボーイミーツガール」ミーツ「ハードボイルド」のような作品で、いつか鍵を閉めて私たちのどこかに押し込んでおいてものに再び触れさせてくれる。

私たちは恋のような体験が出来る。
そして、言葉を使える。


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