場違いなんてこの世にない
遠く離れた友がいる。
時々DMで互いの近況や相談をする。どうしようもない弱音も吐く。
フリーランスの私はいつもひとりだ。
すぐに返ってくるわけでもないDMだけど、気持ちを言葉にしてそこにおけるだけで安心する。気持ちを受け取ってくれる人がいるという安心感。
ほぼ日の5年手帳で日記を書いている。2019年から始めたので今年で5年が終わる。2019年からの5年間で私の人生は大きく変わった。会社に勤めていた2019年から2021年半ばまでの日記には、ほぼ毎日の仕事のこと、コリスのこと、家族のことが書かれている。友だちやコミュニティと交わった日には興奮気味に隣の余白を埋めている。
外に出せない言葉は日記帳に書けばいいのだが、日記帳に綴られた言葉たちは苦しそうに見える。手帳に詰め込まれた小さな文字を見ながら読み返すのが苦しい。
言葉を外気に触れさせることで言葉に込めた思いは変化するのではないか。
noteを書き始めてからは、日記帳に書くよりもnoteに書く方が思考が整理される。人に見えるものだからだろうか。日記帳には何を書いているのだろう。結局同じようなことを書いている。もっとここでは書けないことを書けばいいけれど、書けないようなことが今はない。いやいやある。それは日記帳にも書いていいのだろうか。人は気持ちを書く場所を求めている。ここに書けないことはどこに書けばいいのだろう。あそこに書けないことはどこに書けばいいのだろう。書くことは受け止めてもらうこと。誰にも読まれなくても外気にさらしたくなるのだ。
ほぼ日5年手帳をまた買ったけれど、これから5年毎日書けるだろうか。
話がズレた。
「この世に場違いなんてない」
昨日友人とDMしていて送った言葉。
チャレンジしようとする人には壁が見える。ここにいていいのだろうか、こんなことしていいのだろうか、場違いじゃないか……。
場違いってなんだろう、と考えた。
場違いって誰が決めるのだろう。
そこにその人が立っている理由があるのなら、場違いってないのではないか。場違いって言っちゃうのは、自分なんじゃないか。
「場違いってこの世にない」
そう、つぶやいた。その言葉は自分にも返ってきた。
遠く離れた友にも言いたかったし、自分にも伝えたい言葉だった。
山田ズーニーさんがtwitterにあげていたおとなの小論文教室を読んでさらに胸が熱くなった。