「やめる練習」について考えた。
ちょっと前に、前職時代の同僚と久々に話す機会があった。
これまで経験してきた仕事について話していく中で
「なぜ、そんなにスグに辞めれるの?」
と彼女に問う場面があった。
「やめる練習」
彼女は海外で働くことを決め、先に前職を退職していった。今は結婚して1児の母として会社で働いている。日本の北から南、海外といろんなところで経験値を積んだ彼女が、これから先の働き方を考える中で、フリーランスとして働きだした私に話を聞けたらとのことで連絡をくれた。一緒に働いている時から彼女の印象は、自由で行動力があり、危なっかしいところもあるが自分にド正直に生きてる愛されキャラ。
彼女とこれまで仕事や暮らしについて話しをしている中で、野本響子さんの著書『日本人は「やめる練習」がたりてない』が思い浮かんだ。彼女は日本人の中でも、「やめる練習ができている人」に思えた。「嫌だと思ったらすぐ辞めちゃうんですよね、なんでそんなに続けられるんですか?」と。。
なぜ彼女が「やめる」ことができるのか聞いてみた。すると、
選択肢があるから辞めれる
その場で出てきた答えはすごくシンプル。でもすごく納得。
その日の会話の後、わたしとの会話を振り返り、彼女の中でも「なぜやめることができるのだろう」「そもそもホントにすぐ辞めてきたっけ?辞めなかったことは逆になぜだろう」と、思考を深めてみるとのことだった。
また話を聞ける日を楽しみにしている。
彼女は幼い頃、たくさんの習い事をさせてもらったそうだ。
たくさんの習いごとを経験する中で、違うなと思ったものは辞める。
それを辞めても他の選択肢があるから辞めることに対して迷いがなかったという。
はじめる、やめる
幼い頃からこれを繰り返してきたことが「やめる練習」になったのだろうか。
ここからは、わたしの勝手な妄想だ。
選択肢があるから辞めれるってことは、やめる練習とは選択肢をつくる、見つける練習なのではないか?
選択肢といっても、何かやることがある、何かやることをつくる、ということだけでもなくて。何もやらない、という選択も含めて、2つ以上ある選択肢の中から自分で決める練習を行なう。
※思考の寄り道
スポーツ一筋
勉強一筋
●●業界一筋
この道一筋●十年
やめる練習について、選択肢・・・という言葉を考えるなかで、一筋って怖いもんだなと思った。夢中になる時、他の何かを捨てている。他の何かを捨ててまで時間と心を注いで夢中になったことがなくなった時、人はどうなってしまうんだろう。
でも、夢中になった何かを失ったとしても、夢中に取り組む中で得たものは失われることなく、その人に残る。
だから夢中になったっていい。
同時並行でたくさんのことにチャレンジしたっていい。
結論、夢中は怖くない。
彼女がやめる練習ができているのは、
幼いころからの習いごとを、自分の意思で辞めていることではないか。
「やめる練習」において大事なこと
「やめる練習」とは、選択肢を複数もつことではなく、自分のことを自分で決めること。
彼女と話してから、娘のコリスにも選択肢が複数ある環境を与えてあげたい、安心してやめる練習をしてほしいと考えたりもした。
やたらと習い事も勧めてみたが、どれも「やらない」とあっさり断られた。
わたしがコリスにできることは習いごとを複数提案することではなく、すでにしっかりと自分自身の人生を生きているコリスに、自分で自分のことを決めてもらう機会をつくることだ。
そのためには、母さんや父さんの役割は、コリスコリスと絡むことよりも、自分のことを精一杯やるのがいいのではないか。
そんな結論に達した。