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禅の道(82)空閑に独処す

道元禅師の正法眼蔵十二巻本の中に、八大人覚はちだいにんがくについて述べられた以下の文章があります。先日師匠と会食しながらこの話題が出ました。八大人覚は遺教経(仏垂般涅槃略説教戒経)に引用されている仏説で、宗派は違ってもこの八大人覚は釈尊最晩年の遺言といえるでしょう。とりわけ三番目の「樂寂靜」をあらためて噛みしめてみます。

三者樂寂靜。離諸憒鬧、獨處空閑、名樂寂靜
(三つには樂寂靜。諸の憒鬧を離れ、空閑に獨處するを、樂寂靜と名づく)。
佛言、汝等比丘、欲求寂靜無爲安樂、當離鬧獨處閑居。靜處之人、帝釋天、所共敬重。是故當己衆他衆、空閑獨處、思滅苦本。若樂衆者、則受衆惱。譬如大樹衆鳥集之、則有枯折之患。世間縛著沒於衆苦、辟如老象溺泥、不能自出。是名遠離
(佛言はく、汝等比丘、寂靜無爲の安樂を求めんと欲さば、當に憒鬧を離れて獨り閑居に處すべし。靜處の人は、帝釋天、共に敬重する所なり。是の故に當に己衆他衆をして、空閑に獨處し、苦本を滅せんことを思ふべし。若し衆を樂はん者は、則ち衆惱を受く。譬へば、大樹の、衆鳥之に集まれば、則ち枯折の患有るが如し。世間の縛著は衆苦に沒す、辟へば老象の泥に溺れて、自ら出ること能はざるが如し。是れを遠離と名づく)。

正法眼蔵「八大人覚」より

現代日本語での要約

三番目の覚である『樂寂靜(ぎょうじゃくじょう)』とは、騒がしさを離れ、静かな場所に独りで身を置くことで得られる安らぎのことを指します。仏は弟子たちにこう説きました。『比丘たちよ、もし本当の安楽を求めるならば、騒がしさから離れ、静寂な場所で一人静かに過ごしなさい。静かな環境に住む人は、天界の神々からも敬われます。そのため、自分や他者が関わる喧騒から離れ、独りで過ごし、苦しみの根本を滅ぼすことに努めるべきです。もし人々と群れることを楽しむならば、逆にその煩わしさや苦しみを受けることになります。それは、大きな木に多くの鳥が集まりすぎて枝が折れるようなものです。世の中の束縛に囚われた人は、苦しみの渦に沈み、ちょうど老いた象が泥沼にはまり込んで抜け出せなくなるようなものです。この状態を遠離(おんり)と呼びます。』


禅の道からの解説

「樂寂靜」という教えは、禅の実践の核心に迫る内容です。この教えが示すのは、外の喧騒や雑事を避け、内面の静けさを取り戻すことの重要性です。現代の私たちの生活は、情報や人間関係、物理的な喧騒に満ちています。その中で、真の安らぎを得るためには、意識的に「静かな時間と空間」を持つことが求められます。

禅の視点では、この「静けさ」を得るための方法が坐禅や経行きんひん(歩行瞑想)といった修行法です。一人で静かに過ごす時間は、自分の心を観察し、世間の価値観や束縛から距離を置く大切な時間となります。釈尊や道元禅師が例えたように、人間関係の煩わしさは、木の枝が鳥の重みで折れるように、私たちの心を壊してしまう危険があります。そのため、静けさを楽しむ「樂寂靜」を実践することが、苦しみの根源から自分を解放する鍵となります。


現代における「樂寂靜」の実践

現代では「靜處(静かな場所)」を確保することが難しいと感じる人も多いでしょう。しかし、実際には日常の中に静けさを見つけることが可能です。たとえば、早朝の散歩、デジタル機器を一時的にオフにして過ごす時間、あるいは禅寺での坐禅会に参加することなどが考えられます。

「樂寂靜」は単なる孤独ではなく、自己を深く知り、心を解放するための時間です。この時間を持つことで、世間の喧騒から一歩引き下がり、本来の自分自身を取り戻すことができます。この教えは、騒がしい現代においてこそ、ますます重要性を増しているといえるでしょう。

深山幽谷に居して寂静無為を得ん。


ご覧いただき有難うございます。
念水庵 正道


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