禅の道(20)陶芸がもたらすもの
「禅と陶芸 - 粘土と無心」
陶芸は、一見すると手先の技巧や創造力を駆使した芸術ですが、禅の視点から見れば「ただ造る」という無心の境地へと導かれる道でもあります。今回は粘土を水でこねて小さな仏像や猫をモチーフにした像を作り、焼くまでの工程を通じて、無心の大切さと陶芸がもたらす価値を探ってみます。
1. 粘土をこねる:手と水と土の調和
陶芸の最初の一歩は、土と水を合わせて粘土をこねる作業です。この工程は単純ながら、しっかりとした準備が必要です。粘土を手で感じながら少しずつ水を加え、柔らかさや密度を確認し、丁寧に均一な状態へと導いていきます。このとき、心を無にして、ただ土の感触や手の動きに集中することが、陶芸の醍醐味です。土と一体になる瞬間は、頭の中の雑念が自然と取り払われていくのを感じられるでしょう。
2. 形作り:仏像と猫の小さな存在を捉える
次に、粘土を手のひらで形にしていきます。仏像や猫をモチーフに選ぶことで、形作りにも禅の心が表れます。仏像は落ち着いた表情で、猫は柔らかな丸みを帯びた姿が愛らしく、これらは心を和ませる対象です。指先で慎重に形を整え、表情や姿勢を見つめながら、「ただ在る」姿を模倣するように心を集中します。作る対象そのものに意味を込めるのではなく、その瞬間にただ没頭することで、自然に完成へと導かれます。
3. 乾燥と焼成:ゆっくりと育まれる過程を見守る
形ができあがったら、次は作品を乾燥させます。この時間は、完成を急ぐのではなく、粘土が固まるのを待つ忍耐の時です。乾燥後、窯で焼成する工程に入ります。焼成の過程は、火の力が作品に命を吹き込む瞬間であり、私たちが手を離して見守る時間でもあります。焼きあがる過程では何も手出しできない分、作品が「ただ存在する」ことの重要性を改めて感じさせられます。
4. 完成:陶芸がもたらす「無心」の価値
焼きあがった作品を手に取ると、手間をかけた過程そのものが尊いものとして浮かび上がります。陶芸の一つひとつの工程で、禅の心「ただ造る」「無心になる」ことの価値を見出せるのです。この無心の状態は、陶芸に限らず、私たちの日常生活においても重要な姿勢です。何かに集中し、心から無心であることによって、日々の喧騒から離れ、内面の平和を見つけ出す助けとなるでしょう。
まとめ
陶芸を通じて、禅の「無心」の価値を感じ取ることができましたでしょうか。仏像や猫の小さな像を作ることは単なる創作以上に、私たちの心を鎮め、周囲の雑念から自由になる体験です。
昨日友人から「保護猫団体」の方との連絡方法を詳しくLINEしてもらいました。今月末にはお見合いしたいと思っています。「ねこ」との生活を真剣に考えているのですが、その理由のひとつが、陶芸のモデルとしての採用?です。動機は決して不純ではないと思っております笑
子供のころから粘土で形をつくるのが好きでした。当時は油粘土です。図工の時間がなにより楽しく、絵をかくよりも形をつくるのが得意でした。得意といっても決して上手なわけではありません。いわゆる下手の横好きです。好きこそ物の上手なれ、下手は下手なりに深い味があります。
「型」をつくらず、世界でひとつの「形」をつくる。大げさな言い方で恐縮ですが、型やぶりに禅の道を模索していきます。人それぞれの得意を活かした道があっていいでしょう。茶、香、華、弓、剣、俳句などなど、禅は様々な芸術や武道との深いかかわりがあります。
私にとっての「陶芸」は、禅の道を私らしく表現する展開のひとつです。それは土と水と火の「統合」にあります。まずは、そのための場所を縄文時代の竪穴住居のような簡易で丈夫な作業場づくりから始めます。こういうのって、ワクワクするんですよ。まるで少年のような気持ちです。
ご覧頂き有難うございます。
念水庵 正道
本物のような仕草、こんなのはとても作れませんし、つくりません。リアルよりも大好きな縄文時代のようなデフォルメ作品を目指します。
焼き物に「ヤキモキ」
周りから、また始まったと笑われております笑