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母さんの想い出。

このタイトルだけで泣きそうになります。
五人きょうだいの末っ子に生まれた私は、上が姉ばかりで、ふだんは姉のお古を着せられ、とても可愛がられて、まるで女の子のように育てられました。シスターボーイって呼ばれてたんですよ、これホンマの話です。

父の事業が上手くいかなかったことで母はたいへんな苦労をしましたが、強気でした。「商売に失敗しても人間は失敗しとらん」と私たちを励まし続けてくれました。恥ずかしくなんかないんやということを懇懇と諭し、朝星夜星で黙々と仕事してました。

がんばり屋さんでした。

家族の中では誰よりも早く起き、日中はほとんど休憩無しで、夜は食事がすんだあと座ったまま居眠りしてました。横になって休めばいいのにといつも思いましたが、それを言うと、母は横になると起きられんからと笑ってました。そのイメージが今も強く残っています。

父がはやく亡くなり、母は車の運転ができないので、リヤカーと自転車で仕入れや配達を行ってました。一人で魚屋さんを続けていたのですが、あるとき伝染病(腸チフス)にかかり、瀕死の重体になりました。家中を消毒され、家族さえ面会謝絶、危篤状態から脱出したとき母は「ごめんね、ごめんね」としか話しませんでした。

私が結婚して新婚旅行に行っていた間にも母は倒れました。親戚のはからいで家に帰ったときそれを知らされ、呆然とすると同時に私は「仕事やめてくれや」と頼みました。母は無言でうなずき、さみしそうに笑いました。楽しみを取り上げたようで、申し訳なかったと今は思います。

田舎育ちで京都へ奉公にも出ていた、根っからの働き者でした。
若い頃の写真はとても別嬪さんでした。

母の晩年は、孫の子守と庭の手入れが主でした。私の娘はおばあちゃん子で毎日いっしょに寝てました。母が亡くなったとき娘はくるったように泣きました。妻も大粒の涙でした。子守は一番疲れると聞いています。母が好きだった薔薇の花をみるたび、様々なことを思い出します。

ことしは薔薇の苗を植えたいとおもいます。

「親思ふ心にまさる親心けふの音づれ何ときくらん」

吉田松陰の歌

母の愛情は、わたしの中でたしかに生きています。
だれにでも親しく声をかけ、すぐに仲良しになるのです。
愉快で泣き虫です。
がんばり屋さんで働き者の部分は、少しだけ母譲り。

母の手紙が残っています。末尾にこう結ばれていました。
なにくそとがんばりませう

母のいなくなった部屋を開けると、母の香りがしました。
お線香と石鹸の混じった匂いです。

母の部屋

ご覧いただき有り難うございます。
皆さまのおかあさんの話を聞けたら幸いでございます。

ともにすわる
念水庵


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