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禅の道(48)即心是仏とは?

正法眼蔵の「即心是仏」巻より「修証義」にも引用されている以下の文章について述べます。いささか独自の解釈になりますが、極力わかりやすく説明してみます。

いわゆる、諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。
釈迦牟尼仏、これ、即心是仏なり。
過去、現在、未来の諸仏ともに、ほとけとなるときは、かならず、釈迦牟尼仏となるなり。
これ、即心是仏なり。

正法眼蔵「即心是仏」より抜粋

上記の部分は、道元禅師が「仏とは何か」について述べたものです。以下に現代語訳と解説をこころみます。


現代語訳

 いわゆる仏とは、釈迦牟尼仏のことです。釈迦牟尼仏こそが『心こそが仏』という教えそのものです。過去・現在・未来の、どの仏であっても、仏になるときには必ず釈迦牟尼仏と同じようになるのです。これが、『心こそが仏』という意味です。


解説

 この文章の中心テーマは「即心是仏」(心そのものが仏である)という教えです。道元禅師は、「仏」という概念を釈迦牟尼仏(ブッダ釈尊:歴史上の仏教開祖)に具体化して話を進めています。

1. 「仏」とは何か

  • 仏という言葉が指すのは、単なる抽象的な理想や偶像ではなく、具体的には釈迦牟尼仏のことを指しています。釈迦牟尼仏は悟りを開いた存在であり、仏教の核心的なモデルです。

2. 「心こそが仏」とは何か

  • 「心」というのは、私たちが日々使っている意識や心そのものです。しかし、ここでの「心」は、執着や分別によって汚れた心ではなく、悟りの状態における純粋な心を指しています。

  • 道元禅師は、この心こそが仏であると述べています。つまり、仏性(仏としての本質)は誰にでも備わっており、その心の本質に気づくことが仏になることだと教えています。

3. 過去・現在・未来の仏も釈迦牟尼仏と同じ

  • 過去・現在・未来に亘るどの仏も、釈迦牟尼仏のように、心そのものが仏であるという真理を実現した存在です。すべての仏が同じ本質(仏性)を持ち、悟りの体現者であるという点で釈迦牟尼仏と一致しています。


ポイント

  • 道元禅師が強調しているのは、「仏は遠くにある超越的な存在ではなく、自分自身の心の本質の中にある」ということです。

  • この教えは、仏教の実践を難しい修行や理論に依存するのではなく、自分の心に向き合い、それを浄化することが道だと示しています。


この教えは現代の私たちにも当てはまり、自分自身の心に真摯に向き合い、そこに備わる本来の可能性を見つめることの重要性を伝えています。

南無釈迦牟尼仏なむしゃかむにぶつ


私たちはややもすれば、難解な理論や極端な修行に目をうばわれがちです。その方が尊敬に値すると本気で思っている人は、いざ知らず、私は道理や修行の中身こそが重要であると考えています。つまり道理に裏打ちされた実践ですね。これが修行の本質ではないでしょうか。

こんなことを申し述べると総スカンを食らうかもしれませんが、見た目重視の形骸化に辟易しています。もっと自由な修行スタイルがあっていいじゃないか、というのが本音です。「こうあらねばならん」という観念を捨て去ることも(場合により)必要だと感じています。

もちろん個人的な人間関係は大事にしていきたいのですが、人それぞれの思いや考え方で大きく違いますね。私には私のおもいがありますから、自分の道は自分で決めていく。ひとからとやかく言われる筋合いはございません。ご意見・ご感想として有難く受け止めておきます。

人の言葉を気にすることはありません。私には私のやり方があり、人にどう思われようが知ったことじゃありません。人の目には「変わり者」と映るでしょうが、この歳になれば全く気にもなりません。若い方にもぜひ自分が信じる道を愚直に歩んでいただきたいと存じます。志ひとつです。

ひとは何もみていない。


ご覧いただき有難うございます。
念水庵

にゃんすいあん日記18日目

きのう来客があり、2にゃんたちをしょうかいしました。
ここは、私に近づいて「だっこ」をおねだり。
ビリーは、びびりの本領発揮で、本棚のしたに逃げました。
おとこのこと、おんなのこ、性格といえばそれまでです笑

ふつうは、ビリーの対応が一般的でしょう。
ところが、ここはちょっとかわっています。
おやに似たのでしょう笑
ものおじしません。


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