禅の道(57)謙虚な道を求めて
「初心の弁道」と「小さな坐禅堂」
世間の道を歩んだ半世紀
振り返れば、70年の人生のうち50年は世間の中で生きてきました。この道を歩んできたからこそ、いま僧侶としての「謙虚さ」を少しは持てるようになったのだと感じております。もし私が若い頃から僧侶としての道を一筋に歩んでいたら、きっと「増上慢」に陥り、自分の未熟さを見つめる機会を失っていたかもしれません。
「住職の道」を選ばなかった理由
私が住職の道を選ばなかった理由は、僧侶としての肩書きや地位、煩雑な檀務に囚われず、本来の質素な仏道を追求したいという願いがあったからです。形式や権威に縛られることなく、純粋に禅を学び、実践し、伝えることに集中するために、あえてその道を出ました。
小さな坐禅堂という「基地」
こうして私が辿り着いたのが、小さな坐禅堂を建て、余生を静かに過ごすための「基地」を築くことでした。この場所は、ただ自分のためだけではなく、同じ志を持つ人たちと「共に坐る」ための空間でもあります。大きな寺院ではなく、誰でも気軽に訪れ、心静かに坐禅をするための場。ここに私なりの「禅の道」を切り拓く決意が込められています。
初心を忘れない「弁道」
禅の道は決して完成するものではありません。私はまだ「初心の弁道」を歩む者として、日々自らの未熟さに気づき、学び続けています。50年の世間の道で得た経験もまた、この道を支える大切な一部です。その謙虚な姿勢があるからこそ、私は今この道を歩み続けられるのだと思います。
共に歩む道への招待
この文章を読んでくださる皆さまにも、「初心の弁道」という視点でご自身の道を見つめていただければ幸いです。坐禅堂(参禅堂)は、私だけの基地ではなく、共に「禅の道」を探求する仲間たちの場所でもあります。ここでともに坐り、静かに過ごす時間を共有する中で、それぞれの道が少しでも豊かになることを願っています。
結び:禅の道は続く
住職の道を選ばず、世間の道を歩み、そこから学びを得た私は、これからも小さな坐禅堂を中心に「禅の道」を模索し続けます。この道がどこへ向かうのかはわかりません。ただ、そこにあるのは静けさと謙虚さ、そして「初心の弁道」を忘れない心です。
禅僧は、毎年正月を前に、自身の「遺偈(ゆいげ)」をつくります。
いつ遷化してもいいように、漢詩を残しておくのです。
お恥ずかしい限りですが、以下に掲げておきます。
ご笑覧ください。
初心常念遠
初志を常に念じて遠きを望む
山堂暮色新
山堂に暮色あれば心新たなり
坐禅清水至
坐禅すれば清水至り
無為自得真
無為にして自ら真を得たり
他はこれ吾にあらず
ご覧いただき有難うございます。
念水庵 正道
にゃんすいあん日記27日目
ここの顔アップがみれる動画です。
かわいさ、ハンパありません。
おやばか。。。