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老子12:感覚的刺激がもたらす弊害と、内面的な充足の重要性
原文(老子第十二章)
五色令人目盲。 五音令人耳聋。 五味令人口爽。 馳騁畋獵(ちていでんりょう)、令人心発狂。 難得之貨、令人行妨。
是以聖人為腹不為目、故去彼取此。
現代語訳
鮮やかな色彩に目を奪われると、目の本質を見失う。 美しい音楽に耳を傾けすぎると、耳の本来の働きを失う。 濃厚な味に舌鼓を打つと、舌の感覚が鈍る。 野を駆け巡り狩猟に熱中すると、心が乱れる。 手に入れにくい財宝を追い求めると、行いが妨げられる。
だからこそ、聖人は腹(本質)を満たし、目(表面的な欲望)を追わない。 ゆえに、あれらを捨ててこれを取るのだ。
解説
この章では、老子は人間の五感を通じた過度な刺激が、私たちの本質を見失わせると説いています。五色、五音、五味といった感覚的な快楽に溺れると、本来の感覚が鈍ってしまい、真実を見る目や聞く耳を失ってしまいます。
五感の過度な刺激の危険性
現代社会でも、私たちは鮮やかな広告や美味しい食べ物、エンターテインメントに囲まれています。それらは一時的な満足感を与えてくれますが、過度に追求すると内面的な充足感を失い、さらに強い刺激を求める悪循環に陥ります。
「為腹不為目」の意味
「腹を満たし、目を追わない」という表現は、表面的な欲望ではなく、内面的な本質を重視することを示しています。物質的な欲求や感覚的な快楽ではなく、心や魂の充足を求めるべきだという教えです。
独自の視点からの解釈
私たちの日常生活では、情報や物質が溢れています。スマートフォンやSNSで常に新しい情報を追い求め、消費社会の中で新製品や流行に敏感になります。しかし、それらに振り回されることで、自分自身が本当に求めているものや大切にすべき価値観を見失いがちです。
老子のこの教えは、情報過多の現代においてこそ重要だと感じます。外部からの刺激や他人の価値観に惑わされず、自分の内面と向き合い、本当に必要なものを見極めることが大切です。
どうすれば「腹」を満たせるか
自分自身を知る:瞑想や自己分析を通じて、自分の本当の願望や価値観を理解する。
質素な生活:必要以上の物を持たず、シンプルな生活を心がける。
他者との深い関係:表面的な付き合いではなく、信頼できる人間関係を築く。
自然との調和:自然の中で過ごす時間を増やし、心身のバランスを取る。
まとめ
老子第十二章は、過度な感覚的刺激がもたらす弊害と、内面的な充足の重要性を教えてくれます。現代社会で生きる私たちにとって、情報や物質に溢れた環境の中でいかに自分自身を見失わずに生きるかを考える良いきっかけとなります。
「書を捨てよ街に出よう」という寺山修司さんの評論や映画がありました。70年代初頭の話です。その中身はよく覚えていませんが当時流行ったものです。その時代的意味はともかく、今は「街を捨てて書を読もう」と自分に言い聞かせています。是非はありません。そう感じているだけです。
わたしはとくに映画が好きでした。音楽を聴くことも好き、最近ではYouTube動画をよく見ています。スマホのゲームにハマったことも、ニュースの流し読みやXでのポストなどなど、およそどうでも良いことに時間を潰すことがままあります。その意味で今日の章は甚く刺さります。
感覚を刺激する情報に振り回されないようにと、田舎・自然への回帰を決めました。都会にも少なからず自然は残されているものの圧倒的に優美な刺激が多すぎるからです。都会はたまに出かけるところかもしれません。極力、スマホを使わないようにしたいと願っています。
それよりピアノの練習に時間を割きたい。坐禅の時間をしっかり取りたい。畑仕事も庭造りも大工仕事も環境整備も順次すすめたい。仕事以外にやりたいことが多いので、感覚的な刺激に関わっている時間が惜しいのです。へんてこりんな世界に束縛されて疲れるほど馬鹿げたことはありません。
ご覧頂き有難うございます。
念水庵
ここに「鳥が少ないのは餌がすくないからだ」と友人が喝破した。
(あの人、じつは凄腕のミュージシャン)
ならばと、餌台(食を施す板)をつくろう、と思った。
たしかお山(永平寺)にもあった。
「生飯(さば)」、七粒ほどのご飯粒を餓鬼に施す優しさ。
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