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禅の道(94)不去・不来とは何か
去ることも来ることもない「真実」を見つめる
私たちはふだん、人や物事に「来る」とか「去る」というイメージを持って暮らしています。大切な人との別れを「去ってしまうこと」と考えて悲しみ、やがては自分自身も「どこかへ行ってしまうのだろうか」と思うことで、死への恐怖を抱くことさえあるでしょう。
しかし、禅の教えを深く学んでいくとき、「不去不来(ふこふらい)」という言葉に出会います。これは「去らない・来ない」という意味です。たとえば、ティク・ナット・ハン師はこう説かれています。
私たちの最大の苦しみは「去る・来る」という観念からもたらされる。
愛する人はどこかから来て、どこかへ消えてしまうと考えがちだ。
しかしこの世の真実は「不去・不来」であり、私たちはどこからも来ないし、どこへも行かない。
条件が整えば顕れ、条件が不十分になれば顕れないだけ。
存在しなくなるわけではなく、ちょうどラジオがないときの電波のように、
ただ“顕現していない”だけなのだ。
この「不去・不来」の教えは、般若心経にも通じています。般若心経には「不生不滅(生じもせず滅しもせず)」「不増不減(増えもせず減りもせず)」という言葉がありますが、それらは「存在・非存在」すらも超えた真理を示しているのです。
「不去・不来」が指し示すもの
1. 私たちが「去る」と思い込む理由
普段の私たちは、誰かが誕生し、やがて死んでいくことを「存在が現れて消えていく」と捉えがちです。そのため、いま一緒にいる人や、自分が大切にしている存在がいつか「去ってしまう」と考え、悲しみや恐れを感じるわけです。
しかし、それは自分と他者、人生や出来事を「固まった実体をもって存在している」と見る見方によるものです。
2. ラジオと電波のたとえ
ティク・ナット・ハン師が用いられた「ラジオと電波」のたとえは非常にわかりやすいものです。ラジオが壊れたとしても、電波そのものが消えてしまうわけではありません。電波は常に存在していますが、ラジオという装置(条件)が整っているときだけ、はっきり“音”として顕われるのです。
私たちの体や意識も、ある条件があってこの世に顕れているだけで、条件が変化すれば“姿”を変えていくだけ――それを「去る・来る」と見るかどうかは、私たちの認識の捉え方次第だということです。
3. 般若心経の示す「空」
般若心経には「色即是空(しきそくぜくう)」「空即是色」という言葉があります。「色」は物質、形あるものを指し、「空」は固定的な実体をもたないことを指します。
「色即是空」は、すべての形あるものは本質的に固定的な実体をもたないということ。「空即是色」は、形あるように見えるすべての現象が本質的には空(くう)であるということを、私たちの現実においてもそのまま成り立っている、と説いています。
ここには「不去・不来」に通じる見方が含まれており、「私たちはどこかから来て、どこかへ行くわけではない」「増えも減りもしない」という真実を見るように促してくれます。
別れの悲しみを和らげる
「不去・不来」の真実が見えてくるとき、人との別れが必要以上に大きな苦しみとはならなくなります。もちろん悲しみそのものが完全になくなるわけではないでしょう。しかし、「あの人は完全にいなくなってしまう」「私はいつか全てを失う」という極端な思い込みが和らぎます。
愛する人との別れ
その人がいなくなるというより、条件が変わり「いまの姿として共にいることができなくなる」という見方ができます。ラジオと電波のたとえでいえば、「その人」というラジオが機能しなくなったとしても、その人の“電波”が消えてしまうわけではありません。自分自身の死への恐れ
「死=どこかへ行ってしまうこと」「無に帰してしまうこと」と思い込むと、恐怖が生まれます。しかし、自分は「この身体」だけではなく、さまざまな条件によって顕れている存在なのだ、と理解できるとき、死もまた「姿・条件が変わる」だけであると感じられます。
日々を穏やかに過ごすために
1. 呼吸や瞑想で“いま”を見つめる
呼吸に意識を向けたり、瞑想をしたりすると、「ただここにいる」という感覚が少しずつ育まれていきます。去ることも来ることもない、そこにある静けさを体感すると、「私はいまここにいるが、いつかどこかへ行ってしまう」といった観念が自然とほどけていきます。
2. 変化を楽しむ心を育む
不去・不来は「一切変わらない」ということではありません。むしろ、あらゆる条件によって常に姿を変えているからこそ、“固定的に去ったり来たりしているわけではない”のです。身近な自然の移り変わりや季節の巡りを愛でることで、変化そのものに対する心のしなやかさが育ちます。
3. 執着を手放す
「このまま変わらずにいてほしい」と強く思うと、どうしても執着が生まれ、変化を恐れたり悲しんだりします。自分の身体や大切な人、物事に対しても「本来は去ることも来ることもない存在」と知ると、執着がやわらぎ、安らかさが広がっていきます。
まとめ――「去る・来る」と思い込む苦しみから自由になる
「不去・不来」の真実を理解しはじめると、私たちが抱えてきた“存在”や“非存在”、また“別れ”に対する固定的な見方がやわらいでいきます。
私たちは本来、どこかから来て、どこかへ去っていくはかない存在ではなく、条件によって顕れたり顕れなかったりする「流れ」の一部といえるでしょう。
このように見通したとき、生きとし生けるものとの関わりにおいても、過度な悲しみや恐れに振り回されず、静かに穏やかに過ごすことができます。やがて訪れる自分の死期さえ「どこかへ消えてなくなる」わけではなく、ただ姿が変わるだけ。私たちは常にそこに“在る”のです。
「去る・来る」という観念の苦しみから自由になり、日々をより深い安心感とともに過ごしてみませんか。心を静かに見つめ、目の前の出来事や人との関わりを見直すことで、「不去・不来」を体感として受け止める道が、きっと開けてくるはずです。
宝鏡三昧、不去不来。
ご覧いただき有難うございます。
念水庵 正道