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禅の道(八)名利を離れた「良寛さま」

良寛(りょうかん)禅師は、江戸時代後期の日本において、禅の道に生きた僧侶であり、「名利」つまり名誉や利益から離れる姿勢を貫きました。彼の人生は「貧」を究め、またその「貧」を楽しむ境地に至った稀有な例として語り継がれています。良寛さまの生涯を辿りながら、その思想と実践を見ていきましょう。

1. 若き日と修行の始まり

良寛さまは1758年、新潟県出雲崎町に生まれました。実家は裕福でしたが、若くして禅僧の道に進み、地元の曹洞宗のお寺を皮切りに倉敷市にある円通寺の国仙和尚のもとで厳しい修行を積み重ねました。特に禅の修行は厳しく、体力や精神力を試すものでしたが、彼は一切の俗世の欲を捨て、心身を研ぎ澄ませることに専念しました。

2. 禅僧としての地位を捨て、故郷への帰還

修行の末、良寛さまは高い境地に達し、禅僧としての地位を確立することも可能でした。しかし、彼は「名利」に囚われず、禅僧としての地位を捨て、新潟の寒村である出雲崎に帰りました。この選択は、彼の思想の根幹を成す「名利を超える」態度が表れています。彼は出世欲を捨て、「ありのまま」の生活を選び取ることで、より深い心の自由を得ようとしました。

3. 良寛の庵と「貧」の境地

故郷では、良寛さまは粗末な庵(五合庵)に住み、「貧」の生活を送りました。彼は贅沢をせず、日々必要最低限のものだけで生活し、自らの心と向き合う時間を大切にしました。良寛さまは「貧」を悲しむのではなく、それを喜び、楽しむ境地に達していました。この生き方を通じて、彼は禅僧としての内面の充足感を追求し、「足るを知る」姿勢を示してくれています。

4. 子供たちとの交流

良寛さまは孤高の修行者であると同時に、地元の子供たちと遊ぶことを何よりも楽しみにしていました。彼は「童心」を大切にし、子供たちと共に素朴な遊びに興じました。これは、良寛さまが世俗の価値観から離れ、「無心」の生き方を追求していたためです。「無心」にして、今この瞬間に生きる良寛の姿は、禅の奥義そのものであり、良寛さまの人々に対する深い慈しみを示しています。

5. 晩年の思想と「貧」の美学

良寛さまの教えは、物質的な豊かさを求めるのではなく、精神的な豊かさを重視するものでした。良寛さまは多くを持たず、わずかな物資で生活しながらも、満ち足りた心の平和を感じていました。良寛の「貧」の道は、必要なものだけで満足し、執着を手放すことで内面的な豊かさに満たされることを示しています。

6. 良寛さまの詩歌

良寛さまは多くの詩歌を残しており、その中には「貧」の思想と禅の教えが凝縮されています。良寛さまの詩歌には、自然の風景や日常のささやかな喜びが描かれ、誰もが手にできる「豊かさ」を示しています。「貧」を深く愛し、そこに真の価値を見出した彼の視点は、現代人にとっても心に響くものでしょう。

良寛さまの生き方は、現代の物質主義的な価値観とは対極にありますが、その「貧」の道が示す生き方には、深い智慧と優しさが詰まっています。良寛さまの歩んだ道を学ぶことで、「少ないことは豊かである」という禅の教えを実感できるでしょう。


良寛さまの生涯と為人ひととなりは多くの文献やウィキペディアの記事がありますから参照して下さい。

辞世の句
うらを見せおもてを見せてちるもみぢ 
(良寛さまゆかりの円通寺の句碑にある)


形見として送った歌
形見とて何残すらむ春は花夏ほととぎす秋はもみぢ葉

ウィキペディア「良寛」

燕市の国上山(くがみやま)国上寺(こくじょうじ)にある「五合庵」

五合庵

同じ時代に同じ円通寺の国仙和尚のもとで修行された永平寺50世玄透即中禅師は永平寺中興の祖とされています。かたや大本山永平寺の貫主。かたや生涯寺をもたずにひっそりと暮らした「一禅僧」。私は個人的に「良寛さま」の生き方にあこがれ、強い影響を受けております。

ご覧頂き有難うございます。
念水庵

道元禅師は、名利を遠ざけるべきものと説かれました。
(学道用心集より)
「無常を観ずる時、吾我ごがの心生ぜず、名利みょうりの念起らず」とその理由を説明しています。名利とは「名聞利養」の略で、「名聞」は「世間に名誉が広まること」、「利養」は「我が身に利益をもたらすように取り計らうこと」を意味します。いずれも「吾我」と通ずるもので、仏道修行や身心の調整の妨げになるため、遠ざけるべきものとされています。


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