禅の道(87)不生不滅
今日のテーマは「不生不滅」
こんにちは。今回は「不生不滅」という言葉についてお話ししたいと思います。これは般若心経に出てくる有名な言葉で、「生まれることもなく、滅することもない」という意味をもっています。しかし、私たちが日常で考えている「生まれては死んでゆく」という当たり前の感覚からは、なかなかピンとこないかもしれません。
家族の死と生まれ変わりの思い
私には4人の姉がおりますが、さらに先に亡くなった長姉がおり、さらにその姉より前に水子として亡くなった兄がいたと聞いています。幼いころにそう聞いた記憶は鮮明に残っていて、いつの頃からか「もしかして自分はその水子の兄の生まれ変わりなのではないか」と思うようになりました。もちろん確かめようもないことですから、あくまで想像に過ぎません。
また、祖母が亡くなり、父も亡くなり、そして母を見送ったとき、私は深い悲しみに襲われました。特に母を失ったときは、なかなかその喪失感から抜け出せず、一年以上も心の底から悲しみが消えることはありませんでした。苦労ばかりかけてきた反省や後悔がいっそう胸を痛めましたし、「いつか自分も死ぬんだ」という恐怖まで感じ始めたのです。
そんなとき、ふと「祖母は私の長女として、父は私の長男として生まれ変わったのではないか」という不思議な思いに駆られました。これも証拠のない想像ですが、そう考えることでどこか心が落ち着くような気がしたのです。
母の姿を夢で見た体験
深い悲しみに沈んでいたある日、私は夢の中で母の声を聞きました。背中の方から母の声がして、振り返るとそこに母が生前と同じ姿で座布団の上に座り、雑巾を縫っているのです。いつもの笑顔で私に話しかけてくれました。その光景はあまりにもリアルで、起きたあとも鮮明に覚えています。
夢とわかっていても、この体験を通じて「姿は見えないけれど、母は存在しているのかもしれない」という気づきを得たのです。それまで「生あるものは必ず滅びるのだから、もう母はどこにもいない」と固く信じていましたが、この夢をきっかけに「本当にそうだろうか?」と考え直すようになりました。
ティク・ナット・ハン師の教えと「不生不滅」
そんな折に出会ったのが、ティク・ナット・ハン師の言葉でした。師は著書のなかで、次のような趣旨を語っています。
この教えを読んだとき、私にはまさに「目から鱗が落ちる」思いがしました。普段の私たちは「生まれればいつかは死ぬ」と考えていますし、肉眼で見えないものは存在しないとみなしてしまいがちです。しかし、「見えなくなったからといって、決して無くなってしまったわけではない」という考え方にふれることで、これまでの「死」というイメージが大きく揺さぶられました。
見えなくても存在しているという安心感
たしかに、私たちが何かを「存在する」と感じるのは、それを視覚や聴覚など五感で知覚できるからです。一方で、知覚の及ばないものは「存在しない」と思い込むことが多いかもしれません。しかし、宇宙や生命の在り方を深く見つめると、実は私たちの目や耳に映っていなくても、そこには大切な“何か”があるのではないでしょうか。
夢の中で母に出会ったときの感覚は、私にそうした気づきをもたらしました。たとえ現実世界でその姿を見られなくとも、母の存在は確かに心の中に息づいています。ティク・ナット・ハン師の言うように、「不生不滅」を理解することで、死という概念に伴う恐怖が少しずつ和らいでいくようにも感じています。
おわりに
「不生不滅」という言葉は、一見難しく感じるかもしれません。しかし、「一度生まれたら必ず死ぬのが当たり前」という思い込みをほぐしてくれる、大変大きな力を持つ言葉でもあります。条件が整えば姿を現し、条件がなくなれば姿が消える――私たちが「生」「死」と名付けるその背後には、実は絶えず流れ続ける生命の営みがあります。
悲しみや恐怖、後悔などの感情は、人間である以上誰もが経験するでしょう。しかし、「見えない=無い」のではなく、「姿を変えて存在し続けている」と考えられたとき、私たちの心は不思議なほど安堵を得ます。大切な人の存在は、形や場所を変えながら、いつも私たちに寄り添っているのかもしれません。
今日のテーマである「不生不滅」は、そんな“いのち”の奥深さを教えてくれる言葉だと思います。死の恐怖にとらわれそうになったとき、あるいは大切な人を失った悲しみに沈むとき――「目には見えないけれど必ずつながっている」というこの視点が、ほんの少しでも心を軽くしてくれるのではないでしょうか。
死の恐怖をのりこえる
ご覧いただき有難うございます。
念水庵 正道