禅の道(33)仲間との絆
道場で育むサンガの精神
僧堂に通い始めたばかりのころ、私はひとり黙々と修行に励む日々を過ごしていました。坐禅の時間は静けさに包まれ、自分の内側と向き合う貴重な時間です。しかし、そんな日々の中で次第に気づいたのは、一緒に修行する仲間たちの存在が、私の道を支え、深めてくれるということでした。仏教では「サンガ」(僧伽)と呼ばれる共同体の概念がありますが、それを実感したのは道場での何気ないやり取りや出来事を通じてでした。
ある朝、私は坐禅に遅れそうになり、慌てて道場に駆け込みました。入り口で出迎えてくれたのは、僧堂で長く修行を続けている先輩のAさんでした。彼はにっこりと微笑んで「大丈夫、間に合うよ」と一言。特に大したことではないように思えますが、その言葉には不思議な安心感がありました。その瞬間、私は「ああ、ここには私を見守ってくれる人がいるんだ」と思えたのです。
修行は個人の努力が基本ですが、共に学ぶ仲間がいることで孤独感が薄れ、むしろ深い安心感とつながりが生まれます。仏教でいうサンガの精神とは、まさにこうした互いに支え合う関係性を指しています。それはただ助け合うだけではなく、ともに修行を通じて高め合う関係です。
別の日、僧堂の掃除をしているときのこと。同安居のBさんがほうきを手にして、ふと「この床、私たちを受け入れてくれるみたいだね」とつぶやきました。その一言に、掃除という行為がただの作務ではなく、僧堂における修行そのものだと気づかされました。彼の気づきに触れることで、私の視点も広がり、日常のすべてが修行であるという仏教の教えを身近に感じました。
時には意見がぶつかり合うこともあります。しかし、そのようなときこそ、サンガの本質が問われる瞬間です。一度、私とCさんが掃除の手順について意見を異にしたことがありました。議論は白熱しましたが、最終的に坐禅を通じてお互いの立場を冷静に見つめ直し、笑い合うことができました。この経験を通じて、仏教で言われる「和合」という言葉の重みを実感しました。サンガはただ意見を合わせる場ではなく、互いに違いを認めつつ、それを超えて一つの目標に向かう場であると理解しました。
こうした日々の中で、僧堂での友情は私にとって単なる人間関係を超えたものとなりました。それは互いを「生きる仲間」として認識し、自分の成長だけでなく、仲間の成長をも喜び合う心です。そして、仲間とともに修行をする時間は、個々の努力が重なり合い、まるで一つの生命体として呼吸しているような感覚をもたらしてくれます。
仏教におけるサンガの在り方は、修行を通じて真理を求める仲間たちが、互いに支え合い、和合しながら、共に道を歩むというものです。道場での生活はまさにその縮図であり、日々の些細なエピソードがその尊さを教えてくれます。
仲間とともに坐り、掃除をし、時には語らい、時には沈黙を共有する。その一瞬一瞬がサンガの本質を表しているように思います。この道場での友情と関係性こそ、私が仏道を歩む上での大きな力となっています。そしてそれはきっと、他の仲間にとっても同じなのではないでしょうか。
昨日のNHKのど自慢でインドネシア出身の女性二人組がザ・ピーナッツの「恋のバカンス」を歌っておられました。彼女たちの歌声を聴きながらこみあげるものがありました。故郷を離れ慣れない日本にやってこられ互いに励ましあってきたのでしょう。明るい笑顔をふりまきながらも、芯の強さを感じました。みごと合格の鐘が鳴り、おもわず拍手!!!
「にゃんすいあん」のふたり(ここ&ビリー)は保護され安楽寺(にゃんらくじ)様のもとで大事に大事に育てられ、縁あってウチにやってきました。人間とねこでは違いますが、親元を離れ、知らない人々のなかで必死にがんばっている姿とかぶって、・・・、最近ますます涙もろくなっています笑
ここ&ビリーはおそらく「きょうだい」だと思います。生後2か月ほどと聞きました。9月生まれ?でしょう。「ときどきケンカもするけれど僕たちやっぱり兄弟だ」むかし父が私たちに向かって笑いながらの口癖でした。そんな遠い昔のことを、なぜか想い出しました。
私が「にゃんすいあん」と名付けたハウスに戻ると、ふたりは仲良くいっしょに寝ていました。私の方を向いて「にゃに?」とばかりに目をあけました。ふたりいっしょで本当によかったと思います。でなけりゃ、きっと、ぴーぴー泣いていたことでしょう。
ご覧いただき有難うございます。
念水庵
安楽寺様、どうかご安心ください。ふたりはなかよく遊んでいます。
もう私は、ふたりの僕(しもべ)のようなものでございます。
ふたりの大相撲は、いつも「水入り」です笑
どんどん絆が深まっているように感じております。
ふと見れば共に汗かく仲間かな
暑くて倒れそうになったとき、ふと気づくと仲間もみんな一緒でした。
ひとりじゃないから頑張れる。
合掌