禅の道(三)不離叢林
この道は、坐禅を中心とした生活全体が修行の場であることを示しています。掃除や洗濯、畑仕事などの日常的な作務から、食事はもちろんのこと、お経や所作の練習、読書に至るまで、すべてが修行であり、その中で生活が運ばれていきます。つまり、「行住坐臥」ですね。歩いているときも、立ち止まって考えるときも、坐っているときも、寝ているときさえ坐禅と同じ精神が求められます。
初めはこの教えがよくわからず、「なぜ?」と思っていましたが、あるとき、突然気づく瞬間が訪れました。悟りは、ストレスが溜まって突然爆発するように、蓄積されたエネルギーがある日、地震のように突然訪れるものです。
「悟っているか?」と聞かれたこともありますが、悟りの本質は言葉では説明できません。自分自身でしか感じ取れないものです。
「そんなもの、決まっています」とだけ答えておきました。
一般の方に「修証一等」などと知ったような口をきくことはありません。
修行と行動は見た目では区別がつきません。修行だと思えばそれは修行であり、ただの行動だと思えばそれは行動です。道元禅師が「非思量」と言われたように、考えず、余計なことを思わずに、必要なことだけに集中する術を身につけることが大切です。例えば、スリッパが乱れていれば直し、姿勢が崩れれば気づいて正す。これが日々の中での修行です。
先人たちは、こうした生活の中で多くの教えを伝えてくれました。霧の中を歩いていると、着物が少しずつ湿ってくるように、誰と共に歩むかが、人生においてとても大切なことだと、今も深く感じています。
「不離叢林」、つまり仲間と共に修行することの重要性です。
ご覧いただき有難うございます。
念水庵
道元禅師は「霧の中を行けば、覚えず衣湿る」と申されました。
善き友と共に修行できることは最上の喜びであります。
それゆえに自らを律することが友への責任であり誠です。
霧に覆われるたび、そのことを痛感いたします。