禅の道(27)雨ニモマケズ
貧の中に志を生きる
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』は、その質素で誠実な生き方を描きながら、人間の理想的な生き様を表現しています。この詩と禅の道には深い共通点があります。それは、外的な富や名誉を追い求めるのではなく、内なる志を大切にし、自然と調和して生きる「貧」の美学です。
以下に『雨ニモマケズ』の一部を引用します。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
欲ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシズカニワラッテイル
禅の道と詩の精神
この詩に描かれる姿は、仏教の「虚心」な生き方に通じます。外部の環境や欲望、感情に振り回されず、平常心で生きること。それは、「禅の道」における修行そのものです。
禅では「無為」という考え方を重視します。これは、自然体で生きることを意味し、自分を無理に飾らず、あるがままの自分を受け入れる態度です。宮沢賢治の詩の中で、「欲ハナク」「決シテ瞋ラズ」といった言葉は、まさに仏法の「貪瞋痴(とんじんち)を離れる生き方」を表しています。
貧の中の志
宮沢賢治は生涯を農村の振興や教育、そして詩作や童話制作に捧げましたが、その生活は決して裕福ではありませんでした。それでも、彼は「雨ニモマケズ」に示されるように、自分の志を貫き、他者に尽くすことを喜びとしていました。
禅の道においても、「貧」は単なる物質的な不足を意味するのではなく、「足るを知る」心の豊かさを指します。質素な暮らしの中でこそ、本当に必要なものが見えてくるという考え方です。この精神は、禅僧良寛さまの生き方にも通じます。良寛さまもまた、自分の身を飾ることなく、心を込めて人々と関わり続けました。
わかりやすい例え
たとえば、禅寺での修行は質素な食事や生活が基本です。豪華なものはありませんが、その中で一日一日を丁寧に過ごし、坐禅や作務(さむ)に集中します。同じように、宮沢賢治が詩の中で語るような「小サナ萓ブキノ小屋ニ居テ」といった質素な暮らしは、外的な豊かさよりも内なる志を育むものです。
まとめ
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』と禅の道は、物質的な豊かさを求めず、内面的な充足と他者への献身を目指す生き方で深く結びついています。禅の道を歩む者にとって、賢治が描いた生き様は理想的な「貧の中の志」の一例といえるでしょう。この生き方は現代の忙しい社会においても大切な道標となります。
宮沢賢治は、法華経を信奉する日蓮宗徒で、青年時代に法華経に感銘を受け、座右の書としていました。臨終のときには南無妙法蓮華経という題目を唱えて亡くなっています。
宮沢賢治と法華経の関係について、次のようなことが知られています。
幼い頃から浄土真宗の信仰に厚い家で育てられた宮沢賢治は、盛岡中学の最上級のころに和漢対訳の妙法蓮華経を読み、感銘を受けました。
宮沢賢治は、法華経の思想である「すべての人間に秘められた可能性を信じ尊ぶ行為こそが、自らの可能性を開いていく鍵を握っている」ことに共感していました。
宮沢賢治は、片田舎の無名の農民のために殉じることが、法華経から学んだ生き方だったとされています。
宮沢賢治の詩「雨ニモ負ケズ」は、病床の賢治が手帳に書いたもので、賢治研究者によって「不軽菩薩」がモデルだったことが主張されています。
私はこの詩がとてもすきで、いまでも諳んじることができる数少ない詩です。それはもう「お経」そのものではないでしょうか。嫌なことがあったときには(すぐに忘れてしまえばよいのですが)、ひとりこころのなかで、この詩を唱えます。すると大好きなじぶんのこころが帰ってくるのです。
ご覧頂き有難うございます。
宗教宗派に関係なく「貧」に生きることが純粋な道でしょう。
きのう、雨上がりの晴れ間に虹がでていました。