吠える猫、眠る獅子。
昨日、仏教の「獅子吼」の話をしました。タイトル画像は猫でした。今日は昔飼ってた猫の話をいたします。タイトル画像はライオンにしました。
天邪鬼といえばわたしのことかもしれません。へそ曲がりともいいます。物事には裏表があることを知っておかれても損にはなりません。今日は、どうかそうした軽い気持ちでお読み頂ければ幸いです。
わたしが子供の頃に、近所のおじさんの家で飼われていた三毛猫のリンゴが産んだ「ピーコ」をわたしが勝手にもらってきました。
家族は猛反対。なぜならウチの家は当時魚屋さんでしたから「魚屋に猫は要らねえ」という至極まっとうな反対理由でありました。
三つ上の一番下の姉だけが私の味方をしてくれました。ピーコがとてもかわいかったせいでもありますが、何よりわたしはその姉の大のお気に入りで、わたしの手を握らなければ眠れなかったほどです。
弟というより妹のように可愛がってくれてた姉は「わたしが責任もつから、ちゃんと育てるから、店の魚には近づけないから」と涙ながらに必死に弁護してくれたことを思い出します。
母は最後までおかんだけに「あかん」と言いましたが、父は子どもに甘く「大きくなったら繋げばいい」と賛成に転じました。上の姉たちは知らんふりを決め込んでましたが、内心では賛成してくれてました。
(昔のことは歳いってもよう覚えとるもんですな)
晴れて我が家の一員となった三毛猫ピーコは、やんちゃ娘、オテンバさんでした。一気に家族の人気者。下の姉までもがピーコをそれこそ猫可愛がりで、いつしかピーコといっしょに寝るほどになりました。
ピーコに人気をさらわれたわたしは、なぜかさみしい気持ちになって、ひとり遊びを覚えました。今でいう引きこもり状態に突入したのです。
そんなわたしをピーコは横目でチラリチラリ。気になって仕方なかったのかもしれません。わたしの大事な宝物をかじったこともあります。
腹が立って、ピーコがきらいになって、遊んであげなくなりました。すると猫は正直なもので、キライがわかるんですね。近づこうともしません。
ピーコが大人になるころには、わたしも大きくなって関係は打ち解けましたが(笑)ピーコには残酷な日々が待ち受けていました。
魚屋の猫は、首輪にロープでつながれることになったのです。フツウの猫は自由なのにと強い憤りを感じましたが仕方ありません。約束でしたから。
ピーコはたくさん子どもを産みました。お転婆娘の本領発揮。つながれていてもちゃんと妊娠し、夜にはオスたちを呼ぶ声(笑)まさしく咆哮です。
長生きでした。病床にあってもお腹が大きくなって、まだ産むんかいなと家族が笑っていたことを妙に鮮明に覚えています。
最後に生まれた子どもを近所のリンゴの飼い主が、亡くなったリンゴの後継ぎとして引き取りました。リンゴの孫で「ゴリン」という名前でした。
親子三代の三毛猫。あれからゴリンの消息はわかりませんが、ピーコの最期は、悲し過ぎて書けません。
・・・
獅子のように、眠っているような姿でした。
およそ生きとし生けるものはかならず死す。
だからこそ今を精一杯生きていこう。
ご覧下さり感謝に堪えません。
念水庵 正道
テーマ:仏教をわかりやすく伝える。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?