
縄文時代4:最古の大規模集落の謎
三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、青森県青森市に位置する縄文時代の大規模な集落遺跡です。この遺跡は、紀元前3900年頃から紀元前2300年頃まで、約1600年間にわたって人々が暮らしていた場所とされています。発掘調査により、当時の縄文人たちの生活や文化がわかる貴重な遺物が発見され、縄文時代の集落の実態を知るうえで非常に重要な遺跡です。
主な特徴
大規模な集落跡
三内丸山遺跡は、これまで見つかった縄文時代の遺跡の中でも特に大規模です。集落跡には、竪穴住居(地面を掘って作った住居)や、大型の建造物の跡が残っています。特に、木柱を使った巨大な建物の跡が発見されており、これは祭祀(まつりごと)や重要な集会に使われたのではないかと考えられています。豊富な遺物
この遺跡では、縄文時代に使用された土器、石器、木製品、骨角器などが多く出土しています。中でも「深鉢土器」などは、縄文時代を象徴する美しい文様が刻まれており、縄文文化の高度な技術と美意識を伝えています。また、ヒスイなどの装飾品が出土しており、遠く離れた地域との交流があったことも示されています。農業と狩猟採集
三内丸山遺跡の人々は、狩猟や採集に加えて、栗の栽培などの簡単な農業を行っていたことがわかっています。遺跡からは栗やどんぐりなどの植物の種子が見つかっており、食料としての利用があったことが推測されています。集団墓地と儀式
集落内には集団墓地も発見されており、遺体が一箇所に集められて埋葬されていたことがわかります。このことから、当時の人々は死後の世界についての考えや、特定の儀式を行っていた可能性が示唆されています。
世界遺産登録
三内丸山遺跡は、2021年に「北海道・北東北の縄文遺跡群」の一部としてユネスコ世界文化遺産に登録されました。この遺跡群は、縄文文化の価値を世界に認めさせるために重要な役割を果たしています。
現在の遺跡
遺跡は現在も保存されており、現地には「三内丸山遺跡センター」が設けられ、発掘された遺物の展示や、当時の住居を再現したエリアがあります。また、解説ガイドや体験プログラムを通じて、訪れる人々が縄文時代の生活に触れることができます。
三内丸山遺跡は、縄文時代の文化や人々の暮らしを知るための貴重な遺産であり、その規模と豊かさから縄文時代の社会構造や交流の広がりを示す重要な手がかりを提供しています。
下の動画はとてもわかりやすく案内されています。
どうぞ出かける前に(ネタバレのようですが)是非ご覧ください。
教科書でさらっとまるっと通り過ぎた縄文時代は、今や多くの方の注目するところとなりました。弥生時代から現代までを全部足しても約2300年間ですから、縄文時代が一万年以上も続いたことは驚異であります。とりわけ三内丸山遺跡の集落は約1600年間続いた、まさに王国でありました。
今は見つかっていないものの。今後も驚異の遺跡が発見されるかもしれません。三内丸山を後にした縄文人が南下し、他の地域で大規模な王国を築いていないはずはないでしょう。考古学というより考古ロマンですね。日本の誇り「縄文王国」の探求をまだまだ続けていきたいと思っています。
縄文時代にはヒスイなどで作られた装飾品が出土していますが、翡翠といえば勾玉(曲玉)を思い浮かべます。我が家にも緑色した勾玉を家宝にしていた昔があります。
勾玉(まがたま)は、日本の古代から伝わる装身具であり、独特な形状と深い歴史を持ちます。そのルーツについて少し調べてみました。
起源と歴史
勾玉の起源は縄文時代にさかのぼります。当時の人々は、動物の牙や骨を模した装身具を作り始め、これが後の勾玉の原型となったと考えられています。弥生時代に入ると、稲作の普及とともに大陸から新たな文化が伝わり、勾玉の形状や製作技術も影響を受けました。古墳時代には、翡翠(ひすい)や瑪瑙(めのう)などの貴重な石材を用いた勾玉が作られ、これらは主に祭祀や葬儀の際に使用されました。
形状の意味
勾玉の形状は、アルファベットのC字形やコの字形に湾曲し、一端に穴を開けて紐を通すデザインが特徴です。この形の由来については諸説ありますが、動物の牙や胎児の形を模したもの、あるいは太陽と月の重なりを表現したものなどと考えられています。また、穴の部分は管を意味し、物を導く、つなぐという意味が込められているとも言われています。
三種の神器との関係
勾玉は、古事記にも登場する「三種の神器」の一つとして知られています。天照大神がニギニノミコトに授けたとされる勾玉は、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」と呼ばれ、皇位の象徴として受け継がれてきました。現在でも、皇室に伝わる重要な宝物として知られていますが、実物を見た人はおらず、その存在は謎に包まれています。
地域との関わり
島根県松江市の玉造(たまつくり)地区は、古代より勾玉の生産地として有名です。ここで採れる青めのうは、勾玉の原料として高く評価され、玉造は勾玉作りの一大産地として栄えました。現在でも、玉造温泉街には勾玉にまつわるスポットや体験施設があり、訪れることができます。

このように、勾玉は日本の古代史や神話と深く結びつき、長い年月を経て現在まで伝わってきました。その形状や意味には多様な解釈があり、地域によってもさまざまな特徴や伝説が存在します。
個人的には、この勾玉の存在が考古ロマンを掻き立てました。埋蔵文化財は土の中から発掘されます。一万年以上も前の石や木、土器あるいは骨や貝がらの一つ一つを丁寧に見つけて土をおとし洗い、破片を組み合わせたり分類と分析をとおして遺跡調査の成果といたします。
わがやにもあった勾玉がどういった経緯で家宝になったのかは確かめるすべはありません。むしろそのようなことは些末なことで、なにゆえに宝とされてきたのか、どういう意図で制作されたものなのかを知ることのほうが興味深いです。
勾玉から縄文時代にさかのぼっていく興味の源泉は、日本人のルーツを知りたいという素朴な気持ちです。父系や母系を辿っていけば30代まえにはおよそ10億人の先祖がおられたことになります。2の30乗です。だいたい平安時代ぐらいでしょうか。そのはるか以前の大昔話です。
def calculate_power(A, B):
# AのB乗を計算する
C = A ** B
return C
# 例としてAとBの値を設定
A = 2
B = 30
# 計算結果を表示
C = calculate_power(A, B)
print(f"{A}の{B}乗の結果は{C}です。")
天皇陛下の血筋をたどると云々。神代の昔に何があったのかは別に譲るとして、一万年以上も前に日本に文明があったことは間違いないわけですから、もう少し誇りをもって生きていきたいと思います。わたしに縄文の血がながれているかどうかではなく、今、日本に生きるものとして。
ご覧頂き有難うございます。
念水庵
どうやら縄文時代に猫はいなかったようです。
うちの近所の公園には猫が生息しています。
猫の両目のウィンクの意味をご存知ですか?
一般的には飼い主さんへの信頼や安心感のあらわれとされています。
愛情表現です。ご覧ください。