母親について思うこと
無沙汰してますと言うより、初めてましての方が多いかもしれませんね。いずれにせよぼちぼち投稿してくので読んでもらえたら嬉しいです。
半年ぶりなので手始めに今思ってることをつらつら書いてみますが、世間ではもうすぐ母の日なるイベントが催されるらしいですね。
私は今年で28になりますが、今まで自主的に母の日に参加したことがありません。もちろん父の日だろうが敬老の日だろうが等しくです。
スーパーに行って関連商品が大々的に陳列されてる様を見て初めて、「そんなイベントもあったか〜、、聞いたことあるけどいつだっけ?」となるレベル。
調べたところでピンとくることもなければ、そもそも調べる気力すら滅多に湧きません。
家族という繋がりに縁がなかったから。もしくはそれを避けて来たから。今はまだ分かりませんが、2年ほど前から【あの人が死んだらどう想うのか】と考えるようになりました。
家族が欲しいという理由で好きでもない人と結婚し作られた私が、暴力・人格否定・育児放棄で育った私が、親孝行しとけばよかったと後悔するのだろうか?ということ。
前提として、親孝行なんて言葉は嫌いで、お世話になった人や好意のある相手には考えずとも何かしたくなるものだと思います。
つまり、しなきゃきゃならないものではなく、したくなるものであるべきで、その対象は人間関係等しく誰であっても変わらないはずなんです。
私と母の間には信頼関係なんてありません。あるとすれば数ミリ程度の利害関係のみ。
ではなぜこんなことを考えてしまうかと言うと、母親が笑った顔を見たことがないからです。
唯一、小学校入学直前のある朝、離婚が成立して出ていく父親が玄関を出た瞬間に、目の奥から笑ってたのは鮮明に覚えていて、そのとき完全にこの人に心を開くことをやめたような気がします。
それでも、悲しそうで寂しそうな瞳で面だけ笑ってる不気味な姿が可哀想に思うのは、私の自己愛なのかもしれません。
家族が欲しい母親にとってそれを再現することこそが悦びならば、実現できるのは私しかいないわけです。でも私はそれを拒み続けてきた。なぜなら学生時代に散々奪われたから。
端的に言えば自身の幸せを享受しきれてないから他人に優しくなれない愚か者なんですよ。
嫌な思いを噛み殺してまで母親を喜ばせる時間があるなら、私のための時間や私の大切な人に時間を割きたい。
人間関係は等しくあるべきなんて綺麗なことを言ったって、結局は笑顔にしたい人を選んできたんです。
だから今更母親に何かするのは偽善、あるいは手のひら返しのような感覚があって、自分の行動に一貫性がないことへの嫌悪が強まります。
先日たまたま職場でこの話をしました。死んだらどう想うのか考えてしまうと。
するとその方は父親が亡くなった話をしてくれました。
「色々してあげたいと思ってやったけど、亡くなった後はもっと出来たんじゃないかって後悔はあった。だから後悔するかな?って今考えてるなら、きっとやってもやらなくても後悔すると思う。」
確かにその通りです。
私も30年近く生きてるので、やらずに後悔したことがいくつもあります。そしてそれが年々大きくなっていくことも知ってるつもりです。
それならほんの少しの時間でもいいから、今割けるだけの時間を親のために使ってもいいのかもしれない。人としての一貫性は大事ですが、後悔しないように生きる方がもっと大事です。
今までの行いが違うと思ったなら少し態度を変えてみてもいいのかもしれない。
相手からしたら急になんだよ。。と嫌な気持ちになることもあるでしょう。実際私も母親に「お母さん変わったから仲良くしよう」と言われたときは吐き気がしました。
けどそれは自身のメリットためだったからです。
好きでもない人に時間を割き、お金をかけてプレゼントを買い、いつか後悔するかも?でそんなむしろデメリットの方が多いことをやる必要なんてきっとないんです。
でも私は、やらなくてもいいことをやる人がカッコいいと、歳を重ねて思うようになりました。
仕事でもそうです。業務だけやってれば文句を言われる筋合いはないんですよ。けど気配りやコミュニケーションをやってる人の方が仕事できるなって思うんです。
学生時代にどれだけ奪われたって、成人してからいくらでも取り戻せます。
育児放棄や虐待で殺された小さい子のニュースを観ると本気で思います。うちの親は殺すのだけは思いとどまってくれたんだと。
それがなかったら私は愛情や信頼を知ることはなかったし、美味しいものも、綺麗な景色も、何にも知らないまま終わってたんです。
だからたくさん挑戦したいし、たくさん愛する人になりたい。そして願わくば、たくさん愛される人になりたい。
そんなことを思う休日の夕方でした。。