魔王城の掃除婦【試し読みver.】
プロローグ
手のひらがやけにぬるぬるとすべった。それがもう命が助からない量の血だと気づくのにしばらく時間がかかった。そして、ようやく倒れた体を揺するのをやめた。
勇者様も他の仲間もみんな死んで、なんで自分だけが助かったのか分からない。心の中を占めたのは、この疑問と魔王への圧倒的な恐怖だった。魔王に勝てなかったという絶望よりも、ずっと強く、仲間のように無惨に殺されたくないという恐怖が体を支配していた。なぜ生き残ったのかという疑問だけが、唯一、かろうじて私の理性を保たせていた。
「お前は同族の血が流れているだろう」
ゆっくりと顔をあげると、目の前に魔王が立っていた。怖くて、怖い。死にたくない。殺されたくない。声が枯れるほどの悲鳴をあげながら死にたくない。恐怖でおかしくなりそうになりながら、自分の疑問への答えが示されたことに気づいた。
同族の血が流れている。そうだ。私は人間の母と魔族の父を持つ。母は魔族に殺され、父は病に倒れた。小さい町で町中の人間からいじめられながら生きていた私を救ってくれたのが、勇者様で、勇者様の役に立ちたくて魔法を覚えて、今までみんなでがんばって、長い旅をしてきて、それで、それが、全部、今ここで全部終わったんだ。
「この城の掃除婦となるのなら、生かしておいてやろう」
魔王はモップを私の前に差し出す。おそらく、魔族の血が流れている者を殺したくないのかも知れない。そして、人間の血が流れている私を長く苦しめたいのかも知れない。それでも、ためらう余裕すらなかった。悲惨な死に方をしたくなければ、そのモップを手に取るしかなかった。掃除を命じられた場所は、玉座のある大広間だった。
「いつまでも座ってないで、早く立ちなさい」
魔王からモップを受け取った後、私は勇者様の死体の隣で座って泣いていた。涙が止まらない。悲しいという感情なのかどうか分からない。ただの木のモップを握り締めたまま、涙を止めることができなかった。どれほど時間が経ったか知らないが、声をかけられてようやく顔をあげる。
目の前には、勇者様の死体と仲間たちの死体。私は掃除をしなければ、生きられない。
2人目
私が魔王城で働き始めてからしばらくして、二人目の勇者がやってきた。二人目の勇者は、心臓を一突きされていた。どうにも、魔王の気に障ることを叫んだようだ。苦しむ間もなかっただろう。苦しむこともなく、恐怖に震えることもなく、死ぬことができたのは、運が良かった。勇者の仲間たちは、勇者が一瞬で殺されたのを見て、逃げた。ただ、魔王から逃げられたとしても、魔王城から逃げ出すのは簡単ではない。今頃は、幹部たちに追われているだろう。
私の掃除の管轄は、大広間だ。他は知らない。この勇者の死体を片付けなければならない。魔王城の裏にあるゴミ山に死体を捨てて、床が綺麗になるまでモップで磨かなければいけない。勇者の体を持ち上げようとして、まだいくらか温かいことに気付いた。先ほどまで、生きていたのに、今はこんなことになっている。急に吐き気が込み上げてきて、死体の横に吐いた。掃除する場所が増えた。心を動かさないようにすることは、慣れていたはずなのに、うまくできない。町で一人で暮らしていた頃は、動物の死体を投げつけられても、平気だったのに。
私が幼い頃は、父と母と三人で貧しくも幸せに暮らしていた。一つのパンを三人で分け合って、小さな畑を耕して、森の動物を狩り、たまに必要なものを町に買いに行くような暮らしだった。町に住んでいる、他の家族と違うということはなんとなく気づいてはいたが、どういう意味かよく分かっていなかった。森に近い、町の外れに家はあり、父は町の中心部に行くことはなく、母も用事がなければ行かなかった。そういう生活は長くは続かなかった。ある日、父が病に倒れた。母と二人になってからはその日の食事にも困る生活となり、母はある日森の中で魔族に襲われて、「逃げて」と言い残し、息を引き取った。
幼い私は「逃げて」の意味も分からなかったし、行く当てもなかったので、町に住み続けた。町の住民たちは人間の血が通った生き物を殺せるほどの度胸はなく、かと言って、魔族の血を持つ生き物が自分たちと同じように暮らすのは許せなかった。畑が荒らされることはよくあった。町を歩くと、石や動物の死体が投げられた。暴力を振るわれることもあったし、ひどい暴言を吐かれることは常だった。そうやってゆっくりと心を動かさないことに慣れていった。最後に泣いたのは母が死んだ時だ。私の見た目は、魔族の特徴があって醜かったから、男に乱暴されることはなく、運が良かった。こんなことを運が良いと思わなければ、生きていくのが辛かった。父と母の後を追いたいと毎日のように思っていた。ただ、腹が減るから食べて、眠くなるから寝ていた。
そんな風にいつ死んでもよいと思いながら生きていたのに、勇者様一行が町を訪れて、救われた。魔法の才能があると気づき、私は勇者様の役に立つためにその旅についていくことにした。その旅の結末がこんなひどいことになるとは、思っていなかった。
魔王城できちんと雇われている魔族たちの噂話から、私の父は魔王になにか意見をしたらしかった、と知った。詳しいことは分からないが、それが魔王の機嫌を損ねたのは事実だ。本当は、魔王は父を苦しめたかったのだ。だと言うのに、父は魔族の領地から逃げ出して、人間の女と結ばれて、あっけなく病気で死んでいた。父の代わりに母は殺された。父の代わりに私は魔王に飼い殺しにされている。父は悪くない。父を恨んではいない。
けれども、どうして私は今、息を切らしながら、死体を運んでいなければいけないのだろうと考える。死体をゴミ山に埋めたら、血と自分の吐瀉物をモップで片付けなければいけない。掃除用具はモップしか与えられなかった。
メイドたちに笑われながら、遠い水場まで水を汲みに言って、何度も大広間を磨き続けた。許しが出るまで、磨き続けた。
11人目
掃除婦の仕事に慣れてきた、と思い込んでいた。勇者が来るたびに魔王に敗れて、私は大広間を掃除する。その繰り返しだ。魔王が飽きるまで、私は繰り返す。
勇者一行が魔王のいる大広間に突入して、しばらく経った。そろそろかと思って、大広間をそっと覗き、言葉を失った。魔王の残忍な性格は分かっているつもりだった。
勇者は魔王の炎に焼かれていた。けれども、死んでいなかった。仲間の魔法使いが、優れた治癒魔法の使い手であったのだと思う。勇者には、怪我を負っても自動で治癒するような魔法がかけられていた。戦闘の最中であれば、その魔法は有利となっただろうが、敗北して嬲られている最中となれば話は別だ。魔法の効果が切れるまで勇者は死ねない。ただひたすら、熱さと痛みが長引く。勇者は喉が潰れるまで叫び、潰れた喉が治癒されて、炎を吸い込み、その苦しみでもがき、のたうちまわって、それでも死ねなかった。目玉が蒸発して、治癒されて、また炎が目の前にちらついている絶望はどれほどだろう。
勇者が動かなくなるまで、おおよそ半日程度かかった。私は大広間の側で待っていた。待っていることしかできなかった。勇者は黒い人形のようになっていて、勇者の仲間は形すら残らず、影のように床に張り付いていた。
モップで何度擦っても、汚れはなかなか落ちなかった。肉の焼ける匂いが体に染みついて、何日も食事が喉を通らなかった。
魔王がなぜこれほどまでに残忍な性質を持っているのか。実際のところ、今現在生きている人間は誰も分からない。
魔族と人間の国はもう何百年も前から戦争を続けている。戦争が始まるきっかけを覚えているものもいない。
魔王がいつから生きているのかも分かっていない。戦争が始まる前から生きているという話もある。分かっているのは、魔王は人間の国を滅ぼすのは容易いほどの力を持っていて、だらだらと長い時間をかけて戦争を続けているのは、人間を苦しめるために過ぎないということだ。
いくつか仮説はある。
例えば、魔王は昔、一人の人間と愛し合っていたが、裏切られたために人間を恨むようになったのである、とか。
あるいは、古代の呪いに触れてしまって、本来は穏やかな性格であったのに、呪いのせいで性格がまるきり変わってしまったのだ、とか。
あるいは、きっかけも理由もなく、生まれたときから非道と暴力を好む性質で、それがたまたま強い力を持ってしまったのだ、とか。
どれもこれも仮説で、正しいことは何も分からない。けれども、魔王を倒さないことには、人間は脅かされ続ける。
そこで、人間の国王が思いついたのが、伝説をなぞらえることだった。伝説というか、国に伝わるおとぎ話のようなもので、はるか昔に悪い王を倒した勇者の話だ。国民も兵士も疲弊していて、自分じゃない誰かが何とかしてくれるなら、それがいいと思ってしまった。都合よく勇者が現れることはなく、勇者の血筋らしい人間を集めた。一応、訓練らしいことをさせて、魔王を倒す旅に出した。そうして魔王城まで辿り着いた一人目の勇者が、私を救ってくれた勇者様だった。
勇者というより、生贄に近い、と思う。勇者の話はおとぎ話で、魔王を倒せる可能性なんてほとんどないに等しい、と今なら分かる。魔王と実際に対峙した後だから分かることだ。私も旅をしている間は、もしかしたら本当に勇者様なら魔王を倒して、平和な世の中になるのではないか、期待を抱いていた。都合の良い妄想だった。何度も勇者が魔王城を訪れるということは、まだ勇者候補が集められて、同じことが繰り返されているということだ。
肉の焼ける匂いと悲鳴を思い出した。同じ目に合わないようにするためには、私は掃除婦の仕事を続けるしかない。心が時間をかけて摩耗していくとしても、少なくとも体的な苦痛と死からは逃れられる。仲間は死んだのに、生きている自分が嫌になる。でも、死にたくない。あの恐怖を忘れられない。
29人目
仕事にはだいぶ慣れた。心を動かさないことにも慣れた。そんなときだった。
その勇者は笑いながら死んでいった。気が狂ったわけではなく、痛みに屈することなく、希望を語りながら、笑いながら死んでいった。その勇者曰く、いつかお前は倒される日が来る、お前を倒すのは自分じゃなかっただけ、いつかきっと平和な日が来る。強がりなのかもしれない。でも、魔王の刃に何度も体を貫かれながら、それでも最期まで笑って、希望を信じていたようだった。
私の仲間の一人も笑いながら、死んでいったのだった。そうだった。彼女は、仲間の中で最初に死んだ。他の仲間を心配させまいと笑いながら私たちを見送ったのだ。
勇者様は旅を始めたときには二人の仲間がいて、彼女が途中で加わって、さらに私が仲間に入ったのだ。彼女は鍵師で、罠を解除したり、宝箱を開けたりするのが得意だった。
彼女はもともと盗賊だった。貧しさと飢えから逃れるために盗賊となった。長く戦争が続いた世の中では、珍しいことではなかった。彼女はたまたま勇者様がいる宿に盗みに入った。へまをして、見つかって、手打ちにされそうだったところを、勇者様が止めた。彼女は酒が入ると、そのときのことをよく話した。
「勇者様にどうして盗賊の命なんか助けたのか、って聞いたの。そしたら、人が死ぬところを見たくなかったから、だって。なにそれ。今の時代に人なんか死にまくっているのに。でも、鍵開けの腕を買われて、雇われて、しばらく一緒にいるうちに気付いた。あの人って、誰に対しても、何に対しても真面目過ぎる。自分の目に見える範囲は全部なんとかしようとしている。いつかきっと追いつかなくなって、駄目になっちゃう。魔女様も剣士様も真面目でしょう。あたしみたいなお調子者が一人いた方が、旅が最後まで続くかなぁって思って、そのままついてきているってわけ」
彼女は明るい人だった。私が魔法の練習が上手くいかなくて落ち込んでいるときも、なんとかなる、と笑って声をかけてくれた。彼女はどうしてこんなに前向きな心を持っているのだろうか。飢えに苦しみ、仕方なく盗みに手を染めて、それでも毎日笑っているのは、どうしてだったのだろう。旅の途中で何度も聞く機会はあったはずなのに、どうしてか聞けなかった。
魔王城の大広間の扉の鍵を開けたとき、彼女は罠に気付いた。どのような仕組みの罠であったのか、彼女でも対処が難しかったのか、全員で取り掛かればなにか活路があったのではないか、今となっては分からない。彼女は他の仲間四人を慌てて大広間に押し込んで、扉を閉じた。
「あたしは戦闘に役に立たないしさぁ、外で待ってるね。みんなで、ちゃっちゃと魔王なんか倒しちゃって、さッ」
扉は閉じてしまって、開かない。魔王はいつ現れてもおかしくない状況だった。他の仲間たちは覚悟を決めて、周囲を警戒し始めた。私もそうすべきだったし、そうしたつもりだった。でも、私は人間よりずっと耳が良い。聞こえてしまう。歯車の音。骨の軋む音。肉が潰れるような音。扉の向こうで彼女の身に何が起こっているのか、想像してしまう。
「あたし。あたし、は大丈夫。こんな罠、なんかすぐに、抜け出せッ、るから。みんななら、ぜった、絶対、勝てる、るって信じてる、から」
途切れ途切れに彼女は叫んだ。笑ったのは、精いっぱいの強がりだったのだと思う。私たちを心配させないためだったのだと思う。彼女は悲鳴をあげずに笑い続けた。最期まで笑っていた。
私の掃除の担当区域は大広間であったから、結局彼女がどのようにして死んでいったのか、分からない。死体を見ることも叶わなかった。
二十九人目の勇者は穴だらけで、細かく切り刻まれていた。ひどく切れ味の悪い刃であったようで、切り口はぐちゃぐちゃだった。自分の体がどうなっていくか想像がついただろうに、二十九人目の勇者は死ぬまで笑い続けた。笑い声が耳に残る。
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