
役に立たない本を読む
最近、読書についての投稿が増えてきた気がするのですが、それもそのはずで、仕事が忙しくなってしまいあまり普段から本を読む時間が取れていないのです。本を読めていないからこそ、読書について考えているのでしょう。不思議なものです。
良い読書というのは、人生の役に立つものだと思います。複数の本を読んで得たそれぞれの知識が人生の長い時間軸のどこかで繋がることになり、新しい価値観を得ることができます。それら新しい価値観はその後の人生を大いに助けてくれる。そんな読書体験をできるだけ多く積み重ねていきたいものです。
しかし、ここのところ新しい欲が湧いてきました。人生の役に立たない本をダラダラと読み続けていたいという欲望です。
これは、定年を迎える母親の誕生日プレゼントを探していた時に見つけた一冊の新書の影響があります。『定年後に読む不滅の名著200選』です。
「人生の役に立つ」という観点で読書について考えると、できるだけ若いうちにたくさんの名著を読んでおいた方が、そこで得た知識をその後の人生に役立てることができるはずです。
しかし、その一方で定年を迎えた以降の人生では、仕事をしていた時にはできなかった娯楽を悠々自適に暮しながら享受していくようになります。
定年後の人生では、健康リスクや寿命との向き合い方こそあれど、定年前の様な苦境を想像することもなく、「人生の役に立つ」という観点で読書をすることは、あまりないんじゃないかと思ったのです。それでも人が本を読み続けるのならば、読書の意義には「人生の役に立つ」という観点以外の魅力も多いはずだということです。
こういった考え方のもと、自分が今まで読んできた本を振り返ってみると、案外意味のない本もたくさん読んできたことに気づきました。
東海林さだおの『丸かじりシリーズ』などは、コロッケはカニクリームコロッケの様に高級になれるけれど、焼きそばはどれだけ頑張ってもずっと庶民派である、とか、そういったあまり人生の役に立たなそうなことが延々と書かれています。
町田康のエッセイでも、時代劇を観ながら焼酎のお湯割りを昼間から飲んでベロベロに酔っ払う日々が書かれています。
これら意味があまりなさそうな読書体験を、仕事に追われることなく時間を掛けて享受してみたい。そんな気持ちが湧いてきている今日この頃です。
読書を通して何を得るのかは、読み手次第であり基本的には「ご自由にどうぞ」といったところなのでしょう。