快適な部屋で死闘を眺める|オリンピックについて
スポーツが趣味なわけではありませんが、オリンピックが開催されると例年ほどほどの頻度で観ていることが多いです。
特定の選手や国を応援するでもなく、ただただ眺めているというのが正直なところです。国際的な舞台で多様な人たちがハイレベルに競い合っているシーンを眺めているのは単純に楽しいものなので、楽しく眺めているわけです。
テレビやネットで見る限りでは熱狂している観客が多いように映りますが、僕のような熱量でただただ眺めている人も結構たくさんいるのでしょう。
僕はこの夏の猛暑のなか、部屋を涼しくして快適な状態で、テレビのなかで繰り広げられる死闘を見ている状況に、時々違和感を感じることがあります。
人間は自分が安全な環境にいながら、厳しい環境で闘っている他人を眺めるのが好きな生き物なんだなと思ってしまうのです。
古代ローマ人は闘技場で殺し合いをする剣闘士たちに熱狂していました。当時の政府は食料と娯楽を与えることで、ローマ市民を政治的無関心な思考にすることに成功しました。これを「パンとサーカス」と言います。
これは現代にまで続いている文化なのかもしれない。そんな斜に構えた視点を持って、それでも楽しくオリンピックを眺めているのです。
ちなみに、こんな視点を持つことになったのも、いくつかのきっかけがあります。
僕自身も過去にテレビに出演した経験があり、出演する側の事情を少しだけでも知ったことから、異なった(斜に構えた)視点を得ることに繋がっているのです。
身バレに繋がるので番組名などは書きませんが、20代という若い年代での闘病経験があることから複数のテレビ番組で取り上げられたことがあります。非常に貴重な経験をさせて貰えたことに深く感謝しています。
出演をすると自分でもその番組を観ることになりますが、そこで描かれている自分は当然本来の自分とは異なった映り方をしています。苦境を乗り越えた若者として強く美しく描かれており、自分が経験した泥臭くて惨めな経験は程良い言葉となって見やすい描写になっていることが大半です。
放送が終わると知人友人からメッセージが届き、称賛をされて嬉しい気持ちとともに恥ずかしさを抱きます。みんな観ているものなんだな、と実感する時です。
そして、テレビの場合は番組の途中にCMが、ネットの場合も広告が入ります。病気予防に関する商品や保険など、複数のスポンサーのもと番組は成立しているのです。
快適な部屋で健康に暮らしている人が、自分の闘病ストーリーを観ることで健康に意識が傾き、その心の隙間を狙って広告を打つ企業が儲かっていく。
そうか、メディアを介した世の中というのは、こういう仕組みだったんだ。そんなことを考えるようになっていきます。
だから、今でも快適な部屋でオリンピックを観戦していると、「パンとサーカス」現象と、スポンサーと出演者と視聴者の関係性をどうしても垣間見てしまいます。
とはいえ、その関係性があったからと言って、感動するものは感動するのだとあらためて思っています。選手たちを観て元気が出ることが多いです。
テレビCMに釣られて無駄な買い物などは絶対にしないタイプですが、今回はもう少しピュアな気持ちでスポーツを観戦しようと思います。