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【442球目】第二次成長期⑬

生産推進グループが誕生するきっかけの続きです。


構内請負

生産推進グループが誕生する前に、三陽工業では構内請負職場がいくつかありました。現在でもあります。

この構内請負とは、お客様の工場内をお借りしてモノづくりを行う、自社工場に限りなく近い形態です。安全、品質、納期、コストについて、自社で全て解決していきます。三陽工業の職場責任者がそこには常駐し、人員配置から納期調整や生産調整、コスト管理等をやっていきます。派遣と比較すると、近い所にある形態に見えますが、やっていることは全く異なります。こういった構内請負の形態があったからこそ、生産推進グループの仕組みにも繋がっていきました。

現在でも生産推進グループの説明をする時に、請負から品質・納期・コストを取り除いた状態で運営をしています。そんな言い方をすることがあります。要は、自分たちの職場を運営する=そんな想いで思考と行動するのが生産推進グループです、そういった説明をすることもあります。


もっともっと

生産推進グループが誕生する前、一般的な派遣の形でそれなりに成果は出ていました。

第30期に7億1800万円だった売上から20億円を超えていました。岐阜・滋賀・福岡と拠点も複数になってきながら、少しずつの成長をしていました。売上高が16億くらいの時に、ある経営者の会で発表をさせて頂きました。
5年後の40期の際に、40周年40億、50周年100億をやります!!これでその発表を締めました。周りの反応は、どうやってやるの?という冷ややかなものでしたが、そのどうやってやるの?は実は正しかったのです。

その当時、私が感じていたことは、言ったは良いけどどうやってやるの?でしたから。40周年40億!と言ったけれど、具体的な方法は何1つ持っていませんでした。ただ、ゴロが良いからそれで発表を締めただけ。5年で会社を2.5倍の規模にする方法は見つかっていません。ただ、そうなりたい!とは強烈に想っていました。リーマン後のとんでもない状況を脱してここまで来た。ここから何か方法があるのではないだろうか。今は気づいていないけれど、どこかに三陽工業が飛躍する手段があるのではないだろうか。ずっと考えていました。でも、全然見つかりませんでした。

40周年40億もとてつもなく遠いし、50周年100億って夢みたいな話だな、そん時に感じた正直な感情です。でも、言ってしまった。冷ややかな目で見られている=誰も出来るとは思っていないなので、それを達成しなくても、誰から何かを言われることはありません。ただ、少なくとも数十人の経営者の前で言った事実は残ります。自分の中で、もっともっと全てをシンカさせないといけないと考えていました。


魚住LCへの明石支店への移転

当時、明石支店は西神戸LCにありました。それが魚住LCの業務変更にとって、西神戸LCから魚住LCへ移転することになりました。これも生産推進グループ誕生においてはとても大きなきっかけになっています。

当時の本社は明石市別所町、Kawasakiの工場のお隣に存在します。Kawasakiの門まで歩いて1分くらい。走れば20秒程度です。そこには当然私の机がありましたが、魚住LCにも私の机がありました。魚住LCにいる時間も長かったです。仕事の事はもちろんですが、しょうもないことも雑談で話をしていました。生産推進グループはそんなちょっとした会話から誕生しています。かしこまった会議を行った訳でもなく、そんな雑談の中の知恵やアイデアも含めて誕生をしています。もし、ここに移転していなければもしかすると誕生していなかったかもしれません。それくらい大きな明石支店の移転でした。次回、とうとう生産推進グループが誕生します。

続きはまた明日。

本日もありがとうございました。

明日もよろしくお願いします。



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