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【597球目】高校野球=丸坊主

連日大きな感動を呼んでいる夏の高校野球甲子園大会ですが、試合中継を見ていると何となく丸坊主ではない高校が増えた気がします。
今日はそんなお話をしていきます。



なぜ丸坊主

なぜ丸坊主になったのかは諸説ある為一概には言えませんが、戦時中の名残であったり、規律や統一感からといった説があります。私が中学生の頃は、中学校全体が丸坊主でしたので高校の野球部で丸坊主と言われても何の抵抗もありませんでした。諸説あるとはいえ、高校球児=丸坊主が長く定着していることは事実です。

皆さんの周りの野球部はどうでしたか?


変化とシンカ

三陽工業の三陽スタンダード⑥にはシンカについての項目があります。

シンカ=真の価値、変化を恐れずシンカを止めない、だから私たちはシンキング。

こんな文章です。
逆から読んでいくとシンキング(思考)するから抵抗を感じやすい変化を恐れずに行動し、それがシンカへと繋がっていく。シンカすることこそが、働く人やお客様に対しての価値に繋がっていく、そんな意味になっています。

外部環境は変わっていく訳ですから、変化して当たり前。その変化の継続がシンカへと繋がることになります。変化をしていかないという事はそこに留まることであり、それは退化、衰退へと繋がっていきます。


高校時代

丸坊主が嫌だから野球部に入らない、そんな言葉を何回か聞きました。
そういう感性の人もいるのではないでしょうか。

昔と異なり、野球だけやっていれば良いという訳ではありません。昔もそうかもしれませんが。ただ、当時は野球だけやっていることがカッコいいと思っていましたし、それに何の違和感を感じることはありませんでした。夏が終わってから現実に直面して慌てて勉強し始める訳ですが、それはそれで良い思い出です。野球人口が減っているいま、丸坊主の強制については違和感しかありません。


丸坊主にこだわる理由

高校球児=丸坊主
これを肯定する合理的理由があれば教えてもらいたいものです。確かに、全員が一緒の髪型で統一感もあり、規律を守るという側面では効果的なのかもしれません。もちろん、自分がやりたくてやっている人を否定するものではありません。ただ、みんなと一緒が良いという価値観が既に崩壊している今、そこでの統一感に意味を持たいない気がします。1つのチームで野球をやる。そのこと自体が既に統一感あるのではないでしょうか。

男性はこうあるべき。
女性はこうあるべき。
高校球児はこうあるべき。
夫は妻はこうあるべき。

そんな時代があったのは事実です。
ですが、遠い昔の話ですよね。未だにその価値観を大切にしている人もいますが、全体にそれを求めるべきではないと考えています。その人が考える価値観はバラバラであって当然なのですから。


多様性

日本人は単一民族ではありますが、地方にいけば方言もあったり文化も異なったりしてそれこそ多様性を感じることが出来ます。佐賀に行って初めて関西の特殊性を感じることが出来ました。その地域ごとに大切にしているものがあります。承継していくべきものがあります。もちろん日本全体にもあるでしょう。ただ、変化をしていく必要があるものについては変化すべきです。

シンカ=真の価値は三陽スタンダードだけではなく一般的にも言えることだと思っています。様々な人が様々な思考をして野球に取り組んでも良いのではないでしょうか。丸坊主にしたい人はする、したくない人はしない。
したくない人でも野球が上手くなる可能性はあります。丸坊主でないと野球が上手くならないという訳ではありません。多様性を尊重しながら多くの高校球児がこれからも白球を追いかけていくことを祈っています。

私自身も30才くらいまでは高校球児=丸坊主であるべきだと考えていました。最近、母校のユニフォームが変わったと聞きましたが、ドンドン変えれば良いと思います。これも昔なら、なんで変えるねん!と言っていたと思います。自身の思考も変化していることに気付かされた丸坊主の話題でした。

多様性の尊重



本日もありがとうございました。
明日もよろしくお願いします。

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井上社長|三陽工業株式会社
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!