『瞳をとじて』を観る。
今年は本当に世界の巨匠たちの新作が多かった幸せな年。ヴェンダースの『Perfect days』やカウリスマキの『枯れ葉』とかとか。
その中で一番うれしかったし楽しみだったのがビクトル・エリセの『瞳をとじて』。実に31年もの時を経て公開された。
エリセは映画作家でも寡作な人だけど、その全部が傑作。エリセが新作を作ったと、まだ日本公開も決まってない時に知った時は「生きている間にエリセの新作が観れるなんて!」と心が躍った。
感想を書こうにもうまく言葉にできなくて、中々書かずにいたらもう観てから2ヶ月以上経ってしまった。なので備忘録的に書こうと思う。
ある日突然失踪した俳優を探す映画監督ミゲルの話。ミゲルは20年以上映画を撮っていない。最後に撮ったのは、主演俳優のフリオが失踪した映画。それは未完に終わって、それから彼は映画を撮らなくなった。ミゲルはフリオを探す中で、様々な人と対話をしていく。
この映画はほとんど対話のシーンで成り立っている。カメラは切り返しで対話をする二人の顔を行き来するのだけど、観ていて全く飽きない。それどころか、引き込まれていく。対話をする二人の空間をカメラが分断する。それはただ二人を映すだけでは得られないものがあるんじゃないだろうか。分断によって切り離された視線を僕らがもう一度繋げていく。これってすごくスリリングなことなのではないか。
登場人物達は、ほとんど瞬きをしていないんじゃないかというくらいじっと相手の目を見つめている(と、僕は認識している)。確証が得られないのは、見つめた先が映されないから。見つめている二人の人物のカットを交互に見せることで僕らは彼らが見つめ合っていると錯覚してしまう。
ただ、アナ・トレントは目を閉じる。ここがものすごく印象深い。『ミツバチのささやき』ではまるでカメラのように機械的で時に無慈悲に対象をじっと見つめていた幼少期のアナ・トレントが、大人になりその瞳を自ら閉じた!僕らはいつまでもアナ・トレントといったら『ミツバチのささやき』の頃の姿を思い浮かべてしまう。けれどアナだって当然生きていた。あの頃のアナではない。大人になり様々な経験を経てきたはずだ。その濃密な時間が、あの目を閉じるという行為に詰まっていた。エリセ、すごい。
映画の終盤、ミゲルはついにフリオを見つける。しかしフリオは記憶喪失になっていて、過去の記憶を一切覚えていない。途方に暮れるミゲルだったが、彼に映画を観せることを思いつく。その映画はかつてフリオが撮影中に失踪した、未完のままに終わったあの映画。
町にあった既に廃館になった映画館を見つけて、映画館を掃除してフリオやアナ、そして映画の中で出会った人たちを招待し、ミゲルは映画を上映する。
カタルシスと、幸福感と喪失感と、色んな感情がこのシーンを観た僕の中に湧き上がってきた。恐らくこの感情は、映画館で「瞳をとじて」を観た人にしか分からない。
映画館に足を運び、チケットを買い席について、169分のあいだ暗闇の中光るスクリーンに自分の身体と視線を捧げた人にしか体験することのできない感動。ただ映画館で映画を観るという幸福は、何にも代えがたくて、言葉にすることの出来ないものだ。