『記憶;リメンブランス』
東京写真美術館で開催中の写真展、『記憶:リメンブランス』に行ってきた。
いつも思うけど、楽しい。映画館とはまた違った楽しさ。
ホンマタカシの写真展に行った時、受付のお姉さんに「素敵な時間をお過ごしください」と言われたのをずっと覚えている。
そうそう、素敵な時間なんだよ。普段とは少し違う、素敵な時間。
僕にとってはディズニーやユニバのアトラクションくらい楽しい時間。
展示されている写真や映像を見て、良い写真だなとか綺麗な風景だなとか、これはどういう意味なんだろう? 記録ってなんだろう?と思いを馳せられるのはとても楽しい。
記憶の写真 篠山紀信
篠山紀信の写真。初めて見る彼の写真。
<家>と題された写真たちには、記憶が宿っているなと感じた。
古ぼけた木造建築、散らかった居間、ヒビ割れた壁、その壁に子供(だと思う)が描いたラクガキ、、
そういうもの全てが記憶として家に刻まれている。まるで人が歳を取って皺が出来るように、日々の中刻まれてきたのだ。
そして、東北大震災の被災地を写した写真、「ATOKATA」。
津波によって陸に打ち上げられた船、倒壊した民家、地震の残酷さを写し出す凄惨な写真たち。
ただ、それだけではない何かがある。
写真は芸術とメディアの両方の顔があると思う。でも最近はネットやテレビの普及で、メディアとしての顔が薄れてて、写真よりも速度があるネットの方が早く広がるし、伝わる。
しかし速度が失われたからといってメディアの顔は無くなるのだろうか?
写真の本質は記録である以上、速度は無くなったとしても記録としての持続性は何にも勝る。と僕は考えている。
だからこそ、篠山紀信の「ATOKATA」の写真は記録であると同時に、被災地そのものの記憶を写している。
意味はどこから生まれる?
米田知子さんの写真。
北朝鮮と韓国の国境、サハリン島、様々な歴史的背景がある場所の写真を見て、意味ってどこから生まれるんだろう?と思った。
学生時代、映画を作る時に企画会議でよく「この企画の意味はなに?」と聞かれた。
作る意味とか、見せる意味を考えて作っていたりしたし、意味に囚われすぎてよく分からなくなった。
でもある時ふと、映画に意味はあるのか?と考えるようになった。
社会との結びつきとか、自分にとっての意味とか、色々考えたけど、やっぱり意味って後から生まれてくるものなんじゃないのだろうか。
ただ撮って、ただ作って、それをスクリーンで観た後に「あ、こういう意味なのかな」と考える。こういう事が多い気がする。
米田さんの写真も、僕は撮られた後に見ているから歴史的な背景とか社会性とかを含めてこの写真の意味を考える事ができる。
米田さんは写真を撮る時、意味を見つけていたのだろうか。
意味が生まれる瞬間はいつなのだろう?
創造は模倣から始まる。
村山悟郎さんの『データのバロック』。
人の描いた画をAIに学習(記憶)させて描かせる。
AIの描いたそれは芸術と言えるのか?模倣ではなく、創造と言えるのか?
そんな事を考えた。
「創造は模倣から始まる」
という言葉のように、AIにも創造性を獲得できる日は来るのか?
AIを使ったアートというので、なんとなく最先端っぽいのかなーと思っていたけど、むしろ芸術、創造する事の本質を考えた展示だった。
最近、ハリウッドで俳優をAIで再現して出演させる事に俳優達がボイコットをしたニュースがあった。どこか他人事のように考えてたけど、もうAIは身近になっている。
そう遠くない未来にAIが作った芸術作品が出てくるかもしれない。(僕が知らないだけで既に出ているかも?)
だからこそ、ただ恐れて排除するんじゃなくて、どう関わるのかを考えないといけない。その為には、今一度創造の本質を考え続けるしかないのかもしれない。
写美は楽しい!
いやあ、写美はやっぱり楽しい。
今回は時間がなくて映像作品をしっかりと観れなくて残念。
写美の好きなところは写真美術館という立場から映像のことも考えられる事。
今度また行こう。
帰りに、売店で本を2冊買った。
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