『石がある』を観る。

ポレポレ東中野にて。三年くらい前にフィルメックスで公開された時、僕はまだ京都にいたからこの映画のことを知らなくて、東京で観た人から自慢されてずっと観たかった作品。
やっと、観ることが出来た。これはまさに映画だ。と当たり前だけどしみじみと感じる。
まず映画が始まる前にもうポレポレのシアター内にわくわくする。赤い座席に、青っぽい壁。まるでユニバのスパイダーマンのアトラクションみたく、遊園地にいるような気がしてわくわく。

監督の太田達成さんがこの映画を作るきっかけになったのは、友人と旅行中に川で石を投げたりして遊んだ時に、その行為の途方もない無意味さに感動したからなのだとか。
確かに無意味、無目的であふれている映画。でもそれがたまらなく心地よくて、楽しい。最近話題の濱口竜介さんの著作『他なる映画と』にカメラの本質やそれがもたらす効果についてかなり書かれている。
『石がある』はまさにカメラという記録装置がいかに映画の表現を豊かにするのかが分かる。たぶん30年後とかの映画本に引用作品として掲載されていてもおかしくない。
人の視覚では捉えきることの出来ない、些細な仕草や物(この映画では「石」や「枝」がまさにそう)が本来持つもの、まだ知覚される、言葉として表現される以前のそれ自体が持つものがカメラにちゃんと記録されている。これこそが映画の素晴らしさだし、僕も何回も川遊びをしたことがあるけど、スクリーンに映される『石がある』の川遊びはまるで初めて「川遊び」というものを見たような気にさせる。
ただ、その気持ちとは真逆のことなんだけど、かつて忘れていた僕の川遊びの記憶も掘り起こされた気もする。意味もなく枝を拾ってぶらぶらするとか、とりあえず石を川に向かって投げるとか、ああ僕もやったなあと懐かしくなった。初めて観るような感動と懐かしい気持ちになる愛しさ?のようなものが同時にやって来た。
小川あんさんが出会う謎のおっちゃんはずっと謎。最初いきなり対岸から川を渡って小川さんに近づいてくるのにはめちゃくちゃ笑ったし、ずっと目的もなく川で遊んでるから、この人は神様かなんかなんじゃないかと考える。ちょうど見た目も神様と言われれば神様っぽくもない。
でもおっちゃんもちゃんと普通の人。家があって、ちゃんと朝に起きて、生活をしている。家に着いた時のおっちゃんがとても悲しそうで、麦茶をゆっくり飲む場面は今までの無意味な楽しさとは違ってただ辛い。まるで世界は残酷だと言われてるみたいに思える。

ポレポレで観れてすごく良かった。ポレポレはちゃんとマスク(暗幕)を閉めてくれる。やっぱりスタンダードサイズの映画はマスクを閉めた方が集中できる。最近はマスクを閉めない映画館が増えてきた一方で、スタンダードサイズの映画が増えてきている気がする。

映画館と映画が調和した環境で観れてとても良かった。

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