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24.01.26 【正月 義実家 帰省】(夫婦間における愛の適温)

 なんでこのタイミングでこの本に出会えたん?なんてちょっとした奇跡を感じるくらい、今のわたしにぴったりだった。

 夫のマッサージが強すぎて、でもせっかくやってくれているのに断るのもなぁとそのままにしていたり。義母の心配をあしらう夫を見て、もうちょっとやさしくしてあげたらいいのにとドギマギしたり。いろいろな形で不器用にくり返される愛のやりとりが、ひとつひとつ素敵で、何度も何度も読み返してしまう。

 その中に出てくるエピソードに、義母が出てくるものがある。

 義母の心配をあしらう夫を見た「わたし」は、もうちょっとやさしくしてあげたらいいのにとドギマギする。でも、一歩外に居る自分が口を出すわけにもいかないので黙って見ている。すると、帰り際に「わたし」のところに寄ってきた義母が言う。

「今日はありがとうね、大丈夫だった? いやじゃなかった?」
「えっ、なにがですか。大丈夫ですよ」
 義母は、とても酔っ払っているようだった。
「いや、わたしがあんな風に心配してたら、奥さんとしてはいやだったりするかなと思って」
「いや、ぜんぜん、そんなことないですよ」
「本当? わたしが◯◯くん(夫)のことが大好きでも、いやじゃない?」
 その瞬間、笑ってしまいそうな、それでいて涙が出そうな、なんともいえない気持ちでいっぱいになった。暗がりで、義母の瞳が一際きらめいて見えた。わたしは息を吸いこんで、答えた。
「いやなわけないじゃないですか! そんなの、いやなことなんて、ひとつもないじゃないですか!」

向坂くじら「夫婦間における愛の適温」

 この「いやなわけないじゃないですか!」は、本当にいやなわけがないんだろうなと思う。その後に出てくるエピソードから読み取れるというのもあるけれど、共感できるという意味で、わかる。

 書類に記名しただけで、それまで接したことのなかったひとたちが、心の距離まで家族になれるわけがない。「義母 接し方」「正月 義実家 帰省」なんてググったりして。わたしにとっての義実家の両親も、そしてわたしの両親も、そうやって距離を測りながらじりじりとやっていく、面倒さも含めたそういうものを尊く思える瞬間がある。忘れそうになるとき、何度でも読み返したいと思った。

 愛情は本来そんなにいいものではなく、疎ましがられるほうが自然という気がしてくる。ただ相手に幸せでいてほしいと願うことさえも自分の押しつけではないかと思わされる。けれどもそこで、嫌がられることに怯え、押しつけにならないよう忍耐をし、たえず距離感を測りながらも、どうにか愛情を持ちつづけようとする、大げさな言い方になるけれど、それこそが愛といってはいけないだろうか。
(向坂くじら「夫婦間における愛の適温」より)

向坂くじら「夫婦間における愛の適温」

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