見えない障害を可視化する非専門的交流
クラファンに挑戦していた時から応援してくださっている札幌のかいちゃんさんの記事です。ご丁寧にnoteにまでご感想をまとめてくださりありがとうございました。
先日のおかいこさんフェスティバルで、まさに、かいちゃんのnoteの中にも描かれているようなことを経験したので回想しております。
おかいこさんフェスティバルは二つの会場で9日間開催していました。蚕業遺産の展示をしていた会場だけでも1,700名程の方がご来場くださいました。
その展示を案内していた時に感じたことをメモしておきます。
展示に興味のある方は、どこかのコーナーで足を止めて見入っておられたのですが、「どうぞごゆっくりご覧になってください」と声をかけると、みなさん口々にご感想や記憶を語り始めてくださいました。とても嬉しくて有意義で最高の時間でした。
で、いろいろとお話を続けた最後に「このイベントは精神・発達障害当事者団体が主催しています」とお伝えしていました。
そして、来場された方は決まって驚きになるか、「意外!」という返答をされていました。そして、「ですので、ぼくも当事者です」とお伝えすると、ほとんどの方が「え!そうなの!?」や「そうは見えない」と返答されました。
ぼくは「見えないからつらいことがたくさんあるのです」と返しました。すると多くの方が「絶句」なさるか、「なるほど……」という反応をされていました。おわかりいただけただろうか…。見えない障害や偏見・誤解を可視化できたかしら?
精神障害への理解について思ってみたこと
多くの方が想定する「精神・発達障害者」どんなもんなんやろか?と思う。
仮に、地域に精神保健福祉機能を部分的に移行する。ということを是として、精神保健福祉的な専門性、医学や心理学やあらゆる学問的な専門性でもって社会に理解を促すというのは難しいな。やっぱり専門性は超絶重要な「メタ」として基盤を築くためにあると捉えておくことも大切かな。
言い換えると、接点や交流は非専門的な方が良いのではないかと思うのです。
福祉専門的な理解を迫るとどうしても「精神障害」というラベリングがされてしまう。そして複雑な専門性に対して「敬遠」「スルー」するか、または「どうしていいかわからない」≒「専門性が必要」という構えを取らせてしまって、障害越しにしか接してもらえず、全ての人と同じく多様な人間のうちの一個人である。ということがすっとんでしまう。結果的に地域には精神保健福祉的な機能は移行できず、自立や共生は進まないのではないか。と思った次第です。
(※すべての障害・疾病や当事者の方が、他者との非専門的な交流によって理解や共生や自立が可能になる。ということでは決してありません。こんなことを言っているぼく自身、精神障害の全てを知っているわけでもないし、知り尽くせるわけもないと思っています。もしお気を悪くされた方がおられましたら申し訳ありません。また、その考え方は危険だと思われる方がおられましたらお手数をおかけいたしますが何卒ご指摘ください。)
でもフェスでは、来場された方と「興味・関心」を仲介して時間と空間を共創することで、誤解や偏見に気づいてもらえるきっかけになったかもしれないし、そこに専門的な知識や能力は全く必要ない。という経験をしたような気がします。
個人的には蚕都Grantsの目標の達成に向けた活動の重要な鍵となりそうな何かを掴めそうで掴めない経験となりました。
メモおしまい。