「多様性」とはいうけれど…
仕事をしていると「多様性」とか「社会適応」といった言葉に触れることがあります。うまく言えないのですが、多様性を重視すると、社会に適応できなくなるような、また適応すると多様性が薄れるような。そんな気がしています。
※この記事に無意識的な偏見が含まれると思われた方は、どうぞご指摘ください。
多様性を認め合うということは、文化・教育・宗教・家庭等々の様々な背景によって形成されて、共有される価値観やルール(倫理観・道徳観・常識等に基づく善悪の基準など)の違いも認めるということでもあるのでは?と考えています。
また、ヒトの共同体の個体数が増えるほど(関わりが多く強くなるほど)、ルールは汎化や普遍性を求めて抽象化するのは必然とも思うし、抽象化されれば、個人のもつ具体的なルールが一致しない個体が出てくるのも必然かと思います。
ヒトが(たぶん)無自覚に形成している、社会という共同体の個体数には、実は上限があって、もしかしたらその共同体という容器の使用期限はとっくに切れていたり、もしくは機能がアップデートされていないのではないかと思うのです。
実はそこに、ぼくらが挑戦するプロジェクトの「小さく新しい社会があれば…」という発想があったのです。それが厭世的な動機で形成されてしまうと、マジョリティとの摩擦や対立などが生じるのではないかとも考えられるので、小さく新しい社会の構成員にだけ利益がある構想はせず、つながりを失わないようなビジョンを描いています。
蚕都Grantsは、歌舞いた小さな共同体でありながらも、そのほかの共同体の価値観やルールとも「調和」を目指さなければと思っています。
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