まるお食文化エッセイ『柴又帝釈天で酒を呑む!』
「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」
柴又帝釈天は、正式には題経寺という名称であり、日蓮宗のお寺である。 帝釈天(たいしゃくてん)は、仏教の守護神である天部(てんぶ)の一つで、バラモン教・ヒンドゥー教・ゾロアスター教の武神(天帝)と同一の神である。仏像を見る時に覚えておくといいが、尊像は上位から『如来』『菩薩』『明王』『天』という4区分となっていて、帝釈天が属する『天』はその4番目にあたる。インドの古来の神が仏教に取り入れられて護法神となったもので、帝釈天のほかは梵天、吉祥天、弁才天、伎芸天、鬼子母神、大黒天、四天王、竜王、夜叉、聖天、金剛力士、韋駄天、天龍八部衆、十二神将、二十八部衆などが存在する。
柴又は、古くから門前町として知られており、映画『男はつらいよ』の舞台となったことで全国的に有名になった。帝釈天の境内に入ると左手には『御神水』があり、庭園にも処々水が豊富に流れている。『帝釈天で産湯を使い』とは、この御神水が使われたのだろうか。
柴又駅から帝釈天までの参道には様々なお店がたくさん並んでいる。寅さんの実家の家業であったことから、まず有名なのはだんご屋さんである。古くからこのあたりの農家でよもぎを使った草だんごが食べられていたことがだんご屋の始まりであるらしい。草だんごで最も人気なお店『髙木屋老舗(たかぎやろうほ)』は、参道の入口近くにあり、道の両側に建っている。映画『男はつらいよ』の撮影の際に、休憩や衣装替えに店のお部屋を貸したりして撮影に大きく協力していたお店である。寅次郎の実家『とらや』(のちに『くるまや』に変更)のモデルの1つにもなる。『とらや』の最初のモデルは、テレビ版では参道入り口の『えびすや』さんで、その後の映画版の間取りのモデルは『亀家』さんであるといわれている。現在、参道の中ほどに『とらや』を名乗る店があるがここはちょっといわくつきだ。第8作から第42作までチーフ助監督を務めた五十嵐敬司さんが語っている。この『とらや』は元々は『柴又屋』という名前であり、第1作から第4作まで、暖簾、売り台、立看板などを持ち込んで店内から表の参道向きのカットを撮っていた。年に二回も撮影があるので、大きく重い売り台を小道具係が気安く置いてきたところ、店側も便利なのでそのまま使っていた。この売り台の正面に『とらや』と書いてあるので、通りすがりの参詣客が映画の『とらや』だと思い、店も売り台を中央に据えてしまい、あろうことか店名も『柴又屋』から『とらや』に変えてしまった。松竹が抗議をしたが解決せず、次の作品から『とらや』から『くるまや』に変えざるを得なかった。いろいろ撮影時にお世話になっている同業種の髙木屋老舗さんへ申し訳ないやら、映画の中の名を奪われて、無断で営利目的に使用されるやら、松竹側の怒りはいかばかりだっただろうか。
そんな髙木屋老舗さんで、くず餅、だんごセットを注文して、生ビールと常温の日本酒をやる。私は甘いもので酒を呑むのも大好きである。ここの草だんごは、コシヒカリを毎日使う量だけ挽き、よもぎは筑波山麓産の柔らかい新芽を使い、餡は北海道産の一級の小豆を使っているこだわりの逸品である。
そして柴又帝釈天の次の名物はやはり鰻である。参道には何軒も川魚料理屋さんが並んでいる。中でも有名な川千家(かわちや)さんは、創業が安永年間という老舗である。帝釈天の板本尊が1778年に発見され、江戸市中などから柴又へ参拝に来る客が増えて、そうした客をもてなすために柴又の農家が副業で江戸川でとれる川魚料理を川べりで振る舞うようになったのが始まりと言われている。1899年に金町駅から柴又に帝釈人車鉄道(人車軌道:人が客車や貨車を押す鉄道)が通ったことで、それまで川沿いにあった川千家さんは5代目を迎えたときに現在の場所に移転した(現在10代目)。
川千家さんで、ビールと冷酒を注文し、まずは鰻が出来上がるまで板わさと鯉のあらいで一杯やる。『鯉のあらい』の『あらい(洗い)』とは、糸造りやそぎ造りにした魚の切身を氷水にくぐらせ、冷やして身を引き締めてから提供する料理で、『鯉のあらい』は、一度温水に通してから氷水に落として冷やす場合が多い。表面の脂肪を洗い流し、川魚の泥臭さがなくなる。酢味噌をつけて食べる。川千家の鯉は、猪苗代湖畔で養殖されたものを使用しているそうだ。
うなぎ白焼き(松)でチマチマ酒を呑んで、最後の締めにうな重(松)をいただく。しかしながら、本来江戸っ子は『蒲焼が出てくるまでは新香で酒を飲む』ものであり、白焼きなどを注文して間をつなぐのは邪道といわれていた。従って鰻屋は新香に気を遣うものとされているのだ。
江戸の鰻は、徳川家康の時代に干拓によって多くの泥炭湿地が出来たことにより、鰻が住み着くようになり食べられるようになったと言われている。江戸前と言う言葉も、元々は鰻に対して言われていた言葉で、後に寿司にも使われるようになった。鰻の食べ方は江戸初期までは、蒲の穂のようにぶつ切りにした鰻を串に刺して焼いただけという食べ方であった。現在のように開いてタレを付けて食べるようになったのは、江戸時代後期の天保年間に千葉県銚子にあるヒゲタ醤油が濃口醤油を作り出してからである。尚、鰻の血にはイクシオトキシンという毒が含まれるため、普通は生で食べることはできない。鰻蒲焼きの調理法は、東西によって異なる。愛知県あたりから西は、腹開きにして、串打ちしてそのまま白焼きし、タレをつけて焼く。別名地焼きといい、大抵は表面がカリッと仕上がっている。 関東は、武士の切腹を嫌い、背中から裂く(背開き)。串打ちをしてそのまま白焼きをしたあと、せいろで白蒸しをしてからタレをつけて焼く。ふわっと柔らかく仕上がる。私は関西風に慣れている名古屋人ではあるが、たまには川千家さんの関東風に蒸した鰻も中々いいものであると思う。