頼家の略奪愛と政子の説教
2022年7月24日、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第28話「名刀の主」が放送されました。
選ばれた宿老13人による評議、そして頼家(演:金子大地)が安達景盛(演:新名基浩)の正室を頼家が奪おうとした事件、そして梶原景時(演:中村獅童)の変に至るまでが描かれております。
梶原景時の変については、以前自分でまとめたものがありますので、そちらをお読みいただければと思います。
今回は梶原景時の変前後の京の動きなども踏まえて、まとめたいと思います。
安達景盛
今回初登場となる安達景盛は安達盛長と丹後内侍(頼朝の乳母・比企尼の長女)の間に生まれた子です。
鎌倉殿の源頼家が景盛の妻を奪おうとした話は『吾妻鏡』にも出てきます。
ただし、妻ではなく「妾」とされており、その手口はドラマ以上に酷いものでした。
それは安達盛長(蓮西/演:野添義弘)と景盛が所領である三河国に出張中に手篭めにしてしまったというものでした。
これを恨みに思った景盛は頼家に讒訴されています。
いやー……北条政子(演:小池栄子)、実の息子にここまで言うかという感じのフルボッコですね。
私はこの事件は、頼家を貶めるため(頼家の暗殺を正当化するため)、もしくは政子や北条家の家格を高めるために作られた『吾妻鏡』作者の創作ではないかと思っていました。
しかし、最近、この事実は事実としてあり、景盛の「妾」という表現だけが創作(実は妻)だったのではないかと思うようになりました。
というのも、『吾妻鏡』の編纂者が鎌倉幕府幕府関係者であり、成立年代が1300年頃(永仁から正安あたり)だと仮定した場合、時代は得宗専制体制が確立された9代執権貞時の時代で、一度は没落の憂き目にあった安達氏が復権したあたりです。
となると、この話を『吾妻鏡』に掲載したことは北条氏と安達氏の関係の深さを表すのに都合が良すぎると思っていました。
原文通りに「妾」とするならば、頼家に罪の意識はないでしょうし、政子もここまで激昂することはないでしょう。
しかし妻(正室)なら話は別です。ドラマの中で頼時(演:坂口健太郎)が言っているように「人の道に外れる」行為です。・
そしてそれは景盛の武士としての名誉にも影響します。
そのため「妻」ではなく「妾」という表現にしたのかなと思いました。
ちなみに、この安達景盛はこの後、鎌倉幕府内の数々の内部抗争にかかわり、承久の乱でも幕府首脳陣の一人として関与しております。
今後のドラマの中で注目すべき一人ではないかと思います。
また、このドラマでは(おそらく)描かれませんが、北条泰時の嫡子・時氏の妻は景盛の娘で、4代執権経時、5代執権時頼を産んでおり、北条氏の縁者としての地位を持ちました。
その結果、泰時の妻の出自である三浦氏と対立関係となり、御家人筆頭の地位をかけた「宝治合戦」という不幸な戦いが起きてしまうのです。
梶原景時の変における京の動き
梶原景時は鎌倉を追われ、京に向かいます。ドラマではそれは源通親(土御門通親/演:関智一)の招きによるものと描かれました。
この鎌倉の変事を京都がどう受け止めていたのか、九条兼実の日記『玉葉』の正治二年1月2日の記述にはこうあります。
兼実の日記が本当なら、景時は千幡を盟主に掲げて頼家に対し謀反を起こそうとしたことになります。しかしこの当時、千幡は阿野全成夫妻に養育されており、それは不可能でしょう。
真偽はわかりません。しかし、景時の死後3年後、阿野全成が謀反の疑いで頼家に殺害されていることを考えると、この事実も「虚報」と捨て難いものがあります。
梶原景時の変後
正治元年11月18日、頼家は梶原景時に鎌倉追放を命じました。
翌月12月29日、景時が務めていた播磨国守護職は小山朝政(結城朝光の兄)に与えられたと記されています。
年が明けて1201年(正治二年)1月20日、相模国の住人・原宗房より鎌倉に知らせが入りました。
北条時政(演:坂東彌十郎)、大江広元(演:栗原秀雄)、大夫屑入道(三善康信/演:小林隆)の三名はこの件について軍勢を派遣することを決定し、三浦義村(演:山本耕史)、比企能員(演:佐藤二朗)、糟谷有季、工藤行光らを追討使として出陣させました。
景時は駿河国清見関(駿河国庵原郡/静岡県静岡市清水区)あたりで現地の侍といざこざを起こし、そのまま戦闘に入りました。そして追討使ではなく、現地の駿河侍たちによって族滅してしまいました。
駿河侍たちは追討使たちと合流し「誰が誰をどう討ち取ったか」を申し上げました。それは大江広元によって頼家の耳に入り、『吾妻鏡』に記録されています。
ドラマでは、今回の「梶原景時の変」の発端である結城朝光の謀反話そのものが三浦義村の策謀という形になっています。結城朝光が義村に「そんなに梶原殿が憎いですか」と尋ねると「別に」と答えた後
と答えました。この三浦義村のこのセリフが何を示しているのか、まだ先は長そうです。
椀飯
ちなみに、この正治二年正月の『吾妻鏡』には「椀飯」という記述がでてきます。
「椀飯」とは、政治上重要な行事の際に振る舞う馳走のことで、鎌倉時代においては一年の始まりにおける「椀飯」は、その御家人社会の序列を表していると言われます。
正治二年の「椀飯」の順番を御家人序列とするならば以下の通りになります。
しかし、これには当時北条氏と家格争いをしていた比企能員の名前もなければ、若手リーダーと言われる和田義盛や畠山重忠の名前もありません。
一方で、源氏門葉の一人である大内惟義が5番目に位置しているのも変ではないでしょうか。
このあたりはもう少し、掘り下げていく必要がありそうです。